夜明けへの待望編③「苦しみという名の起爆剤」


何があったとしても、どのような絶望を味わったとしても、底辺まで侮辱されたとしても、地面を這いずり回ったとしても、最後まで生き抜こう。神がお与えくださった生命を何があっても最後まで全うしよう。
 ある女性は地震で子ども二人を亡くし、さらにはその女性の実の母親が生き埋めになった現場を目の前で見せられた。その心象は推して察するべきである。このことについて、彼女のことを知らない人間がとやかく口を出すべきではない。絶望の淵にあるなどと簡単に言葉に表現してはいけない。
 しかし、それでもあえて必要だから言う。彼女はなぜこのような悲惨な体験をさせられたのか。神が御采配する地上人生であるならば、そこには悲痛な死を体験し、その痛みを超越する目的がなければならない。そうでなければ、私たちが肉を持った霊であるという大前提への説明がつかない。
 彼女にはその体験が必要だったのだ。親を亡くし、わが子を亡くし、その絶望の極みにおいて、彼女がこれからの人生を歩む上で拠り所とする支えは何か。キリスト教の教えか、仏の教えか、イスラムユダヤか、それとも中東で殺し合っている者達が唱える神の定義か。違う。そんなものは彼女の涙や悲惨な心境を微塵も改善し得ない。
 彼女が必要なのは、人は死後も霊として存在し続けるという確固たる信念ただそれだけだ。地震によって親子は確かに死亡し肉体を失った。しかし、霊は永遠に存在し彼女の身近にあり続ける。その信念に至るには、彼女はどうしてもこの体験を経なければならなかった。この体験なくしては、彼女は霊的事実に目覚めることはなかった。これまで通り穏やかな日差しのなか順風満帆な日々を過ごすだけでは、彼女は自分の存在意義や霊の本質を学ぶことさえなかった。それは彼女にとってむしろ害が大きかった。
 絶望の淵に落とされ、希望を失い、もはやなすすべなしというところまで追い込まれなければ、彼女は生きる上での信念を必要としなかった。必要としないから得ることもなかった。人の本質は霊である。肉体を失っても霊は依然としてそこにあり続けるといった事実に至ることはなかった。この事実を信じることができなければ、同じように震災に涙する者達を救うことはできない。仮にこの震災を経て、彼女の親や子どもが無事だったとしよう。別の人間の親子が亡くなったとしよう。そのもの達が悲しむ様子を見ても、彼女がその痛みを理解することはなかった。他人行儀のお世辞を述べて終わりだったはずである。
 見よ。神の隠密は地上の低き階層で研鑽を重ね、その体験をもって真理を唱道する。
 震災に遭った者達よ。私にあなた方の心境を理解することはできない。私にはその経験がないからである。しかし、喪失を乗り越える勇気を持て、と言うことはできる。いままで記録したことはすべて事実である。肉体の欲求に苦しめられながら、明日を望めず、打つ手無しの絶望の日々を送ることは、生き地獄以外の何物でもない。これに私は毎日体験させられている。それでも肉体を持ち続けながら日常生活を送るには信念が必要である。その信念とは言葉だけのものではない。体験を伴った心の状態であることが必要なのである。


 とても残念なことですが、人は悲惨な体験を経なければ本当に必要なことを学び取ることはないのです。その体験がなければ、本当に必要とする考え方、生き方、魂のあり方を人が身につけることはありません。
 自分が味わった絶望からしばらく経ち、いつか遠いですが必ず来る未来において、その絶望を客観視することができるようになったとき、その苦しみが必要であったことや肉眼では捉えられない存在の導きを確信するときがきます。まるで四季が廻るように人がその確信と絶望を繰り返すなかで、その道はやがてたどり着く神への途上であるとの確信に至るはずです。
 私たち人類は、憐れなのです。自己評価し反省し心を改めるという過程を行うには、苦しみという名の起爆剤を必要とするのです。その起爆剤こそが地上生活で与えられる暗く長い陰鬱な試練なのです。シルバーバーチとして知られる数々の善霊がそのような憐れな私たちを思い、真理の伝達者として神から派遣されました。私たちはシルバーバーチの人格すべてを信じるのではありません。そのメッセージの発信元である神たる我らが統率者を信じるのです。


 あなた方は地上生活の困難を避けるため見せかけの神に祈り、苦難に直面すれば神にその責任を押しつけるにも関わらず、神の存在を信じようとせず、与えられた苦しみを神が与えたもうたこととして重宝せず、目先の困難に立ち向かおうともせず、愚痴をこぼすのみで何ら対処しようとしません。あなた方が信じる神は、間違いなく人が作り上げた神であり、その属性の一部は内包されるものの、人が作り上げたものだから結局は偽善です。かつて黄金の牛を信仰し、富の神を信仰した人類から何も変わっていない。
 人類は憐れなのです。
 困難に不平不満を述べる人間は、本当に追い込まれたことがないのです。自分ではもはやどうしようもない、救援はない、一歩も前にも後ろにも進めない状況になって、人は初めて自分に必要なものを求め始めるのです。その過程を経なければ、自分に与えられた困難や苦しみがすべて統率されたものであることに気づけないのです。
 あるものは尿にできた石が痛いと嘆きます。薬でそれらは紛らわせることはできるでしょう。しかし、その発生のメカニズムや原因を説明できる人間がいるでしょうか。その結石を人間が創造し作り出したとでもいうのでしょうか。
 全知全能であり、完全者であり、慈悲に満ちた神だからこそ、その苦しみがその人に必要であるとしてお与えになるのです。これ以上の苦しみは霊に効果を与えないと判断されれば、別の手段が選択されるでしょう。
 その事実から目を背け、人間が最も意識を向けるべき神から目を背け、援助する数々の霊からの助言があるにも関わらず事実を認めない。こうした姿勢が症状や事態を悪化させてしまうのです。それは神の責任ではありません。人間が自分で自分の首を絞めているだけなのです。

 

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