今年で90の年を越えたその男の体が不調を訴えだしたのは、季節が秋を迎える頃だった。夏頃からその気配はあった。年々夏期の温度と湿度は上昇するように感じられ、その男の老体にも堪えるであろうことはその男自身も分かっていたことでだった。間もなく、山里の中腹に男の家系が古くから引き継いできた持ち家で生活することができず、彼の娘が手配した介護施設に入居することになった。現役の頃に蓄えた養老年金がその原資となった。
その男は自らの人生を振り返った。戦前の激動の時代に生まれ、縁あって地元の小学校の教師の職を得た。同郷から妻をもらい子宝に恵まれた。定年退職してからは地元にある博物館の館長の職に就きながら近隣の発展に務めることを心がけた。そのときの功績により、その男のことを慕う者は多く、子どもが市役所に就職したのはその人脈によるところもある。同時に、その男の目には気苦労が刻み込まれていた。男の妻は気性が激しく、時には夫でさえ手が付けられないほどであった。特に金銭に対してはこだわりが強く、この分野に関しては徹底的に管理されていた。それ故、男の家は財政的に安定し、いまでも預貯金、株式、土地などの不動産を数多く有している。
その妻も亡くなって久しい。二人いる子どもはみな女子であり、すでにそれぞれ家庭を持ち、長女はその男の家に、次女はそこから車で一時間程度離れた場所にそれぞれ家庭を持っている。
彼の苦労を知る長女は、男の妻が亡くなったことによって、父親の気苦労が軽減されることを期待した。しかし、人生は甘くなかった。人のために尽くそうと心がける者ほど降りかかる試練は大きく具体的である。長女は結婚し婿を得た。この婿というのが気性が荒く一筋縄では収まらない人物である。男の長女はそのことによりやはり苦労し、その男自身も苦しんだ。
やがて、男の長女は三女を授かり、いずれも自立した。この三女は年の順に結婚していったが、このうち、一番上の女の子が結婚するときには、この男の体調はすでに悪く、介護施設に入居していたのである。男にとって初孫である女の子が結婚するというので、結婚相手を連れて面会したいとの連絡があったのは、一ヶ月前のことである。この男は自分の寿命が長くないことを知っていた。体調も優れない日が多く、寝たきりの日もあった。それでも、初孫の結婚相手が彼に会いに来る。介護職員に手伝ってもらいながら身を起こし、その体を車椅子に納めた。
男が初めて初孫を見たとき、そのあまりにもかわいさに身が震えた。それは、そこに至るまでにその男が犠牲にし、その背中で鞭を受け止め続け守ってきた家庭の賜であることを実感しているからだ。ここまで辿り着く道のりは長く険しかった。初孫はその男の丸顔を遺伝していた。大きくなったら丸顔の愛くるしい女の子に育って欲しい。そのような願いを込めて、「美しい平和を築く女の子」を意味する名が与えられた。しかし、遺伝とは恐ろしいものである。肉体が無ければ遺伝は無い。その遺伝子達は自らが宿った肉体を必死で守ろうとする。初孫の性格は、やがて、その男の憂うべき妻の性格をそのまま受け継いでいくようになった。ある日、男は彼の妻と初孫がこのような会話をしているのを耳にした。
「いいかい○○。生活していく上で無くてはならないものがある。それはお金だ。幸運にも私たちの一族は自ら蓄え、富を増し、土地や株を増やしていった。それはわかるね? しかし、○○のおじいさんやおかあさんはそうではない。人のために自らの財産を使おうとする気配がある。また、お前のお父さんは浪費家だ。財産を預けてしまえば途端に使い果たしてしまうだろう。そこでだ○○。お前が我が一族の財産を守って行きなさい。これらは神様がお前や私たちにお与えになった財産だよ。だから、責任を持って守っていくんだよ。わかったかい?」
「うん、おばあちゃん、よくわかったよ。」
その男は嘆いた。その男は人生の荒波を幾度となく経験し体験していた。神がいなければ私たちは存在しない。神が財産を人にお与えになったのは、それらを人が自ら使うためではない。それらを使って人間同士が助け合うため、そのための練習道具として地上の財産をお与えになったのだ。地上で私たちにとって真の財産などは存在しない。地球上のすべての財産は、神から人間が一時的に借りているにすぎない。しかし、その男の妻は初孫へ語った。私たち一族の財産である、と。神がそれをお許しになったのだ、と。たしかに手段としてはそのとおりである。しかし、目的が逆である。その男は妻に反論しようとしてふすまの陰から一歩踏み出しかけた。しかし、躊躇した。彼にはその妻の激情を知っていた。孫の前でその激情を見せるわけに行かない。その男は悩み苦悩し、その場から離れた。やがて、初孫は財産に関する祖母からの貴重な教訓を胸に、成長していった。
車椅子に座る男の胸にその記憶が去来した。その初孫も30歳をこえた。結婚してもよい年齢である。しかし、その夫のことが気に掛かる。さもすれば、その男と同じ苦しみを味わうのではないか。不幸の連鎖はどこかで断ち切らなければならない。自分の肉体に残された時間はわずかである。この子に何を伝え、何を教えるべきか・・・。
気づくと、西日が差し込んできていた。約束した面会時間が迫ってきている。考えてみれば、この孫ともしばらく会っていなかったことに気づいた。最後に有ったのはいつだったか。まだ自分の体が元気で、家で暮らしているときではなかったか。やがて、男が寝泊まりする1人部屋のドアが開いた。「このご時世で閑静な環境にたたずむ広大な敷地を有する介護施設の、しかも1人部屋が与えられるのも、これまでの人生のたまものね。」いつかは忘れたが、これから訪れるであろう孫にそのように言われた記憶がある。
顔を出したのは、その男とうり二つな丸顔だった。その肌つやは良く、頬はわずかに紅を塗ったかのように紅い。小柄で細身であることもあわせて、実年齢を察することを難しくさせていた。男の予想に反し、孫の○○は1人で現れた。そして言った。「おじいさん。お久しぶりです。」声を聞いても知らない人はなお年齢が分からないであろう。お元気そうですね。などと世間話が始まり、その男も近況を語った。しかし、自分でも驚くほど声がかすれているのが分かった。それにたどたどしい。若い頃のように言語が流ちょうに出てこない。まるで喉でせき止められているかのようだ。
それでも、時間をかけて孫と会話を進めていき、やがて、話題は結婚相手のことに及んだ。
「おじいさん。伝えてあったとおり、今日は私の結婚相手を連れてきているの。その人には、ロビーで待ってもらっているから会ってくれる? 私たち、職場で出会ってからすでに一緒に暮らしていて。一見パッとしない人だけど、心は優しい人だから。」
男の孫が立ち上がり、結婚相手を呼びに行くため部屋を出ると、その男はひとり取り残された。男は冷静であった。ただ、孫夫婦に何を伝えるべきか、それだけがその男の心を騒がせていた。しばらくして、ドアをノックする音が聞こえた。
部屋に入ってきた男にまず目が行くのは、その髪型であった。べつに奇抜な髪型をしているわけでもなく、カラフルに染めているわけでもない。それは短髪であったが、極度なくせ毛なのである。そのくせ毛が人よりも多く密集して生えているため、この男に初見する人は、まずそこに違和感を覚える。次に人が違和感を覚えるであろう箇所は、彼が身についている薄黒縁の眼鏡であった。さまつにも似合っていない。いや、この男に似合う眼鏡はないのでは無いか。それは、その男の鼻が低く小さいためである。男の身長は168㎝程度。学生時代は運動で鍛えたであろう骨格を持つが、体の各所にはすでに贅肉が付き始めていた。
(幼稚だ・・・)
これが孫の夫に感じた彼の最初の感想である。そう感じた上でこの男はさらに考え込んだ。この新婚夫婦に何を語り教えるべきか。
そのとき、男の口から自然と言葉が漏れた。その言葉を発した張本人がそのことにまず驚いた。自分でも意識していなかったのである。まるで、誰かが彼の口を借りて発言したかのようだ。
「皆で仲良くしなさい」
「えっ。・・・あ、はい。」
すでに自己紹介を終えていたので、その唐突な言葉に孫の夫はひるむことはなかったが、あまりピンときていない様子であった。
他に伝えるべき言葉があったのではないか。そんなことを考えながら、その男はしばらくしてから息を引き取った。しかし、この単純な言葉は決して無駄ではなかった。その男は生涯種をまき続けたのである。その最終段階においてまいた愛の種は、世代を超えて語り継がれることになった。やがてその男の孫はどん底の苦しみと涙の果てに、その単純な言葉の重要性を思い知ることになる。
そして、10数年後、そのくせ毛の男はすっかり痩せ衰えた体で周囲に語り出す。
「みんなで仲良くするんだよ。」