神と仏編⑮

 自分が得た真理は周囲の者に教え広めるべきであるとする考えは古くからあり、また、数々の霊言の中でも確認できます。使徒行伝によると、イエスの弟子たちは師が開いた道を引き継ぎ、その教えを近隣へ広めようとしました。スピリティズムによる福音をまとめたアラン・カルデックも同様に、貴重な真理を自分の内だけに納めてはならないと提唱しています。

 しかし、いかがなものでしょうか。自分が得た真理を自分の言葉でそのまま隣人に伝えたところで、それは無意味なのではないでしょうか。それは、日本人が日本語で外国人に語りかけ、真理を伝えようとするのと同じようなことです。そもそも、そうして語る真理そのものがその人間の都合に合わせ、その人間に最も適した独自の教えであり、それぞれの人間によって異なる特殊な、その向上進化の段階によって調合された真理だからです。たとえ言語を同じくする日本人同士であったとしても、その人間の真理を心から共有することは不可能でしょう。

 イエスが語り、パウロが受け継ぎ、数々の善霊が推奨した真理を伝えるということは、単に言葉を広めるという意味ではありません。その意味は単純です。日々の生活において、思いやりを持って人に接しなさい、ということです。

 使徒行伝の時代においては、たしかに言葉を伝える必要があり、その教えを広める伝道者としての行いがそれに携わる霊にとって良き体験として、その霊の向上に資したのでしょう。しかし、現代は違います。かつて伝道で広められた言葉は形骸化し、結果として間違った意味を生み出し、そして悪弊をも生じさせています。

 身の回りの生活環境を見ていただければわかります。日本国内の職場だけでも結構です。現実的に物事を見てみればよいのです。会社において、家庭において、イエスの時代に厳守された律法が必要とされているでしょうか。当時あれほど厳守することが務めとされ、破ることを禁忌とされた安息日現代社会で厳守されなければならないのでしょうか。現代では代わって、法治国家として定めた法律には従わなければならないものです。そこには憲法があり政令があり、省令があります。民法があり商法があり、刑法があります。会社の従業員は就業規則に従い上司の命令や指示に従わなければなりません。組織に属するあらゆる者は、部下を統率しなければなりません。

 その時代に必要な教えや規則は、その時代ごとに異なるのです。人間を統率し、その霊の向上進化に繋げなければならない。この理念はひとつです。しかし、それを達成するために必要とされる「現場での技術的な」教えというものは複数あってしかるべきなのです。この「現場での技術的な教え」を人間は勝手に神とあがめ、神を作り出してきました。そして、ある日、愚かな者たちはこのように言い出しました。「俺の教えの方がおまえの教えより優れている。」

 この意見を取り入れて作られたのが旧約聖書です。書かれている内容は時に真理を含みます。しかし、それは受ける人によって最も適した様々な方角から与えられた技術的指針なのです。だから聖書に書かれている内容には矛盾が生じるのです。

 この点、新約聖書にも同様のことが言えます。そこに書かれている内容を絶対的な教えとして成り立つ教会は、時間とともにやがてその基礎から崩れていくでしょう。その端緒は、すでに統計上に現れてきているはずです。

 すでに、言葉を伝えることをもって良しとした時代は終了しました。これからは、実践がより求められてきます。隣人の霊が向上するために、私たちができることは何か。時には口調荒く注意することも必要ですが、その基本とするのは、思いやりであり同情心です。仏心や愛といった数々の言葉で表現される心の状態で隣人と接することです。

 その過程では、間違いなく私たちは苦しみます。だからこそ、愛することで私たちは霊的に成長するのです。これが現代において真理を広める行いです。

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 能登半島の震災によって苦しむ方々へ

 私はあなた方のところに参じて何かを手伝うことはできません。私には家庭があり、仕事があります。これらは神から与えられたものであり、同時に自分で自分に課した義務でもあります。人間の勝手な任侠心で放棄することは許されていません。もちろん、神から許可がいただければ、現地へ赴き皆さんを援助するよう導かれることでしょう。しかし、今はそうなってはいません。私が不在にすれば、悲しみ苦しむ者達がおります。

 また、私はこのような震災に遭ったこともないので、あなた方の心境を理解することもできません。親や子を失い、さらに寒さに凍え、食料に乏しく避難生活を送る苦しみを体験したことはないからです。

 ただし、次のことは理解できます。そして伝えることができるので伝えます。

 あなた方はいま、暗闇のなか光が与えられず、慟哭にもだえるなか慰めを得られず、救いを求め救いがない状態であり、「なぜこのようなことになったのだ」あるいは「神や仏はなぜこのような事態を引き起こしなさったのだ」と自問自答を繰り返していることと思います。その葛藤は私にも経験があるので、それがいかに苦しいかはわかります。そして、たいてい答えはすぐには与えられないものです。残念ですが、永遠とも思われる時間を苦しみとともに歩まねばなりません。

 あなた方は、石ころだらけの路上で転んだ子供の状態なのです。そして、立ち上がるのはあなた方自身です。私があなた方を立ち上がらせるのではありません。自分で立ち上がることができなければ、泣いて自分から助けを求めるのです。

 なかには肉体が死に至り、霊が肉体から離れる方もいるでしょう。人生のいつかの段階で、そうならない不死の人間がいるとでもいうのでしょうか。それは神がお許しになった死であり、寿命であり、次の段階への移行であるから恐れる必要はありません。

 しかし、神がそうした試練を生きているうちに体験せよと命じられた方々がいます。いま実際に苦しんでいるあなたです。あなたへそのようにご指示された方は、この宇宙と人類を創造された力のある方です。この地球上のシステムが自然に生まれたとでもお思いでしょうか。今、目の前で倒壊しているあなた方の建物は、自然現象によって建ったのでしょうか。設計者がいて、大工がいたのではなかったですか。建物でさえそうなのです。ましてや、この宇宙は誰が創ったのでしょうか。

 私は、この宗教に加入すれば救われます、とか、ネックレスを買えば天国に行けます、とか、苦しみから容易に逃れる方法がありますよ、などといった無礼千万で畜生に劣るようなことを言っているのではありません。そのような甘言を断じて信じてはなりません。災害派遣された自衛官になりすまし、災害に遭われた方々の家に立ち入り金品を奪う。このような者たちは確かに存在しますが、相手にしてはいけません。このような程度の低い者たちによって、あなた方の希望を失わせてはならない。

 すべての苦しみは神がお与えになった試練であり、それらは、あなた方の心に必要不可欠な体験だからこそ与えられたという事実を信じることです。勇気を持つのです。

 泣きながらでも、叫びながらでも、文句を言いながらでもかまいません。その苦しみをお与えになり、時には私たちに幸せを工面し、私たちを愛し、私たちの成長を願ってやまないお方の存在を心から信じ、私たちのためにその宇宙を創造なさったその御力を信じることです。

 本当に今の状況を変えたいと思うなら、決して諦めてはなりません。最も暗い瞬間にこそ、最高の自分を発揮するのです。そして、たとえ首まで埋まっている状態だとしても歌い出すのです。隣で毛布にくるまりうつむく人の士気を高揚させるのです。自分に変えられないことを変えようとしてはなりません。それは不可能なことです。何でもかまいません。あなたにできることを行ってください。目の前にある些細なことから始めるのです。

 それでも、時には挫折を味わされます。どんなに努力をしても、夜は明けてこないと悲しむこともあります。諦めかけることもあるでしょう。事実、私もそうでしたし、今でも時々人生をお終いにしようかと諦めかけます。

 しかし、諦めてはなりません。神の存在を疑ってはなりません。立ち上がった結果のことは考えずに、まずはがむしゃらに立ち上がるのです。それだけに集中するのです。

 そのためには、ただひとつ、死ぬことを恐れず神を信じるのです。神を信じることができなければ、仏でもご先祖でも太陽でもかまいません。私たちは間違いなく支えられているということを信じるのです。

 勇気を持って生き抜いてください。

 早まってはいけません。必ず来る夜明けを待つのです。

 

 苦しみにどん底に落とされたあなた方には、このことが理解できるはずです。親を亡くし、わが子を亡くし、その絶望の極みにおいて、彼女がこれからの人生を歩むうえで拠り所とする支えは何でしょうか。聖書の教えでしょうか、または仏でしょうか、イスラムでしょうか、ユダヤでしょうか。または、中東で殺し合っている者たちが唱える神の定義でしょうか。違います。そんなものは彼女の涙や悲惨な心境を微塵も改善し得ません。

 彼女が必要としているのは、人は死後も霊として存在し続けるという確固たる信念ただそれだけなのです。地震によって親子は確かに死亡し肉体を失いました。しかし、霊は永遠に存在し彼女の身近にあり続けます。その信念に至るには、彼女はどうしてもこの体験を経なければならなかった。この悲惨な体験なくしては、彼女は霊的信念に目覚めることはなかった。これまで通りの日常穏やかな日々を過ごすだけでは、彼女は自分の存在意義や、霊の本質を学ぶことさえなかった。それは彼女にとってむしろ害が大きかった。

 絶望の淵まで落とされ、希望を失い、もはや為す術なしというところまで追い込まれなければ、彼女は生きる上での強固な信念を必要としなかったでしょう。必要としないから、得ることもなかったでしょう。人の本質は霊です。肉体ではありません。肉体を失っても霊は依然として存在し続けるという事実に至ることはなかったのです。

 この事実を信じることがなければ、同じように震災に涙する方々を救うことはできないのです。仮にこの震災を経て、彼女の親や子供が無事だったとしましょう。そして、別の人間が亡くなったとしましょう。その方々が悲しむ様子を見ても、彼女がその痛みを理解することはなかったでしょう。他人行儀のお世辞を述べて終わりだったはずです。

 肉体の欲求に苦しめられながら、明日を望めず、打つ手なしの絶望の日々を送ることは、生き地獄以外のなにものでもありません。それでも、肉体を持ち続けながら日常生活を送るには信念が必要です。その信念とは言葉だけのものではありません。体験を経た心の状態であることが必要なのです。

 とても残念なことですが、人は悲惨な体験を経なければ、本当に必要なことを学び取ることはないのです。そうでもしなければ、今後、人が本当に必要とする考え方や生き方、魂のあり方を身につけることはありません。

 自分が味わった絶望からしばらく経ち、いつか遠いですが必ず来る未来において、その絶望を客観視することができるようになったとき、その苦しみが必要であったことや、肉眼では捉えられない存在の導きがあったことを確信する時がきます。

 まるで四季が巡るように、人がその確信と絶望を繰り返すなかで、その道はやがてたどり着く神への途上であるとの確信に至るはずです。