開拓編②

 彼の妻をその行いや言動から霊的に観察すると、彼女の霊は車椅子に乗り、両手が不自由であり、問題が生じてもただそこにポツンとたたずむことしかできずにいる段階の霊であることは間違いありません。そのような彼女が自分を守るために、その口から出る言葉を悪い方向へ発達させていったとしても、なんら不思議ではありません。

 よちよち歩きのものに走ることを強要することはできません。車椅子での生活を送るものに、歩くことを強要することはできません。彼女は自分の霊の成長段階に応じて習得した範囲で自分の生活を積んでいくしかないのです。

 彼を罵倒し、侮辱するといった彼女の言動に接した彼が憤るとき、その腹を立てているのは何を隠そう彼の脳髄であり、そこから生み出された神経です。彼の霊が怒っているのではありません。彼の霊が怒るときは、真理を守るうえで怒らなければならないときに怒るのです。

 神が人間に感情をお与えになった以上、私たちの霊はそれぞれの怒りを体験するために肉体に宿っているともいえます。その結果生じる苦しみを体験することが、私たちの魂にとって必要不可欠だからこそ感情は存在するのです。

 怒りや悲しみなどの感情は、魂が体験を得るために必要な媒体なのです。すべては、霊が体験を得るために生じる出来事であり、感情そのものは本質ではありません。本質である霊にとっては、小鳥が薄暗く寂しい谷を急いで飛び去るがごとく一時的に生じる幻に等しいのです。

 ですから、耐えきれずに感情を爆発させてしまったような場合でも、必要以上に責任を感じることはありません。これは、無責任になりなさい、と言っているのではありません。自分の理性が及ぶ範囲で考え、信じることができることを信じ、肩の力を抜き、受け身で謙虚な姿勢を心がけ、やれるだけのことをしたら勇気を持って事の成り行きに身を任せて良いということです。

 常に最悪に備えて準備することが肝要です。

 地上は幻想夢のような不確かで一時的な夢ではありますが、単なる夢ではなく、自分の行いに責任を持つといった意味で責任を有する夢なのです。