償いと試練編㉚

 彼がその職場の出来事にて謙虚さを学ばされたのち、彼の進化のための体験の場は家庭へと移ります。

 季節はうつり、肌寒くなりかけるころ、彼はしばしば家を出て夜道を歩くこととなりました。彼は、彼の家族から大いに責め立てられ、対応等を問われ続けることに悩み、感情的にならないようその場を離れる必要があったからです。

 このような時、これまでの彼ならば怒り、怒鳴ることを常としていましたが、真理の一部をのぞき見てからは憤る自分と闘い、感情を押さえながら相手を諭さなければなりませんでした。

 その説得が成功することはまれであり、むしろその結果侮辱され、日常的に反感の言葉を浴びせられるのが常でした。

 しかし、日付が変わり、つぶやきながら夜道を歩くなかにおいても彼はひとりではありませんでした。彼の向上進化を願い、ともに涙する聖霊たちがすぐそばに待機し、彼に働きかけ彼を守護し続けたのです。

 彼の肉体は痛めつけられながらも、彼の霊はこの時確かに御父の愛の中に居り、試練の痛みと御父の愛の温かみが混在していたのです。

 苦しみの最中においては、援助する者たちの存在を感じることは不可能です。実際に、このときの彼は夜道小雨に濡れながら、孤独で暗黒の世界にいました。援助者の存在を表現するうえで、次の詩は有名なものですが、当時の彼には及びつかず、苦しみの体験を経たのちに、この詩の真実の意味を理解したとき、大いに涙したのです。

 地上で「あしあと」として記録されている詩の概要は次のとおりであり、全文は、インターネットで容易に検索できます。この詩はかつて、地上で苦しむ者を救済するため、真理の一部を伝えるメッセージとして人類全体へ行き渡るよう賜ったものです。作者がはっきりしていないのはそのためです。さらには、権利関係から作者を巡って法廷闘争が生じていることが暗黒の地上を象徴する出来事となっています。

 

  • 夢の中で、私は主とともに海辺を歩いていた。
  • 暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。
  • 一つは私の足跡、もう一つは主の足跡であった。
  • 人生の最後の光景が映し出されたとき、そこには一つの足跡しかなかった。
  • 私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
  • 私は主にお尋ねした。
  • 「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人の足跡しかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、なぜ私を見捨てたのですか。」
  • 主はささやかれた。
  • 「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して見捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。足跡が一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

 

 この詩を掲示することは、特定の宗教や教えに加入したり従ったりすることを勧めるものではありません。以前からお伝えしているとおり、それぞれの人間には自由意志が与えられており、その選択においては理性を最大限発揮し、納得できるものを取捨選択することが義務であるからです。

 上述した詩は、真理の一部が含まれているからこそ、それを広く広めるためだけに掲示したものです。したがって、この詩中に登場する「私」や「主」は、特定の宗教における特定の崇拝対象を意味するとは断言しない、ということです。例えるならば、詩中の「主」=「キリスト教におけるイエス・キリスト」であるとは、ここでは断言しません。

 ここでは、「主」とは、地上で苦しむ者に手を差し伸べ援助する善霊を指しています。「私」とは、地上生活で苦しむすべての人類のことを指しています。

 現在のキリスト教の教えを広めるためにこの詩を掲示したのではなく、苦しむ方々の援助となるようこの詩を掲示したということです。