新しき啓示編①

A 「昔から、汝の敵を愛しなさい、と言い伝えられています。この言葉自体は、おおよそ二千年前に当時の民衆へ広く真理を行き渡らせるように、ある人物によって使用された言語であり手段でしかありません。神が人にお与えになった神聖な目的の前に、当時最も妥当な言葉が使用された結果、現在に語り継がれているに過ぎないのです。」

B 「お互いを愛するということは素晴らしいことだと思いますが・・・。」

A 「大事なことは言葉そのものではなく、その言葉を実践しようとする心のあり方だということです。喜び、憂い、楽しみ、怒る。なにごとも人間の心が伴うからこそ意味を持つのです。心という中身がなければ言葉は空気を振動させる単なる物質的現象に終わります。たしかに、言葉には心が入りやすいので、私たちが地上で使用する言語には神理の一部が反映されています。しかし、さきほども申し上げたとおり、この言葉自体は神理でもなんでもありません。言葉は神理を表すために数ある道具のなかのひとつにすぎません。言語が使われる時々の時代に応じて、最も神理に近い表現として用いられた単なる道具なのです。」

B「賛否両論ある考え方ですね。人は時に生きていくうえでスローガンや指針によって勇気づけられることがあります。また、内心はそう思っていなくても、人の心を傷つけないためにつくウソというのもあります。心の状態が即言葉に反映されて外に表現されるというのは、必ずしも起こりえません。」

A「例えば、愛する我が子を殺され、あるいは身体的特徴を馬鹿にして嘲笑するような、こちらの心象を顧みず自由奔放に振る舞う人間を愛することなどできるはずはありません。そのようなときは怒って当然です。そのようなときに我が心を偽ってまで、汝の敵を愛せ、などと言葉を人が使用することを神はお求めになっておりません。神の目的はそこにはありません。繰り返しますが、汝の敵を愛せ、とは、あくまでその言葉が唱えられた当時の文化や民衆にとって、神の目的を達するに最も相応しい表現方法であったからその言葉が用いられたに過ぎないのです。」

B「『汝の敵を愛せ』といわれる前にはこうも言われていました。『目を潰されたなら、目を潰し返し、歯を折られたなら歯を折り返せ』。目には目を。歯には歯を。の原則です。やられたなら徹底的にやり返すべきでしょう。なぜなら、心が怒りで煮えたぎっているのですから。心の赴くままに復讐すべきです。あなたはさきほど、言葉は心を表現する道具であるとおっしゃっている。ならば、人は怒りのままに我慢することなく呪いの言葉を吐くべきです。」

A「これはこれは。だいぶご自身で怒りの体験がおありのようですね。その怒りを爆発させる前に、ちょっと一考してみてください。我が子を殺し、または、こちらを馬鹿にし、嘲笑し、奴隷のように扱い満足な食事を与えず、人の心を顧みないような低俗な者たちに、なぜこちらの感情が決められなければならないのでしょうか。そのような者たちに感情が決められてしまうことは、あなた自身が持つ主導権や選択権を握らせてしまうことを意味します。人を踏みにじり、つばを吐きかけるような彼らのためにあなた方の魂は地上にあることを許されているのではありません。神がお定めになった崇高な目的を達成するために、私はここにいるのです。」

B「その崇高な目的を定めた神自身が、人間が相互に干渉し合うようにこの世界を創造したのではありませんか?」

A「そのとおりです。こう考えてみてください。苦しみが与えられた意味を考えるのではなく、逆に苦しみに問われているのだと。人からつばを吐きかけられたら、次にあなたが選ぶ選択こそがあなたという人間を顕すのです。人は極限状態において表に出る性格が、あなたの真の性格なのです。愚かな者たちにこちらの感情を決めさせてしまったあげく憤慨し、こちらの行動が決められてしまうほど愚かなことはありません。あなた方の感情は、あなた方が自由に選択し決めるのです。ぎりぎりの状態に至って限界の縁にあってもなお、人はどのように行動するか最後の最後まで選択肢が与えられています。その刹那の瞬間に最も適切な感情は自分自身が選択し、最も妥当な行動を選び取るのです。」

B「私は、かつて戦場に身を置いていた経験から、前線でもっとも恐れなければならないのは、銃弾でも爆弾でもなく、自分自身がパニックに陥ることだと実感しています。低俗な人たちの無知ともいえる振る舞いによってこちらの感情を爆発させてしまうことは、パニックに陥ることに等しいのです。こんなことでは前線で特殊作戦に従事することはできません。敵はそこら中にいます。」

A「それでも人はパニックに陥るときはパニックになります。不動の精神など持ちようはずはありません。人に幸福を感じる能力が与えられている以上、人は必ず低俗な者たちからの干渉によって動揺するようにできてしまっています。つまり、幸福があるからこそ、不幸があるのです。それでも、泰然自若のように見えるのは、動揺した後の回復が早いだけの話です。人は必ず動揺します。もしくはさせられます。そんなときは、あらゆる知識を動員し、回復に努めることです。」

B「それならわかります。人に侮辱されたときに、次にどう行動するかを決めるのは私です。その選択の時に、怒り、悲しみ、感情のままに行動することは他人に自分の選択を委ねることになってしまいます。自分の行動を決めるため理性的になって考えるとき、その基礎となる感情の決定権を他人に握らせてはいけません。わかりやすく言うとこうかもしれません。人への思いやりを知らぬ馬鹿者のために、私の感情が決められることはないということです。彼らのように、というか、私の妻のように凶暴な猿は世界中の至る所に存在する。彼らが通り過ぎてくれることを祈ります。」

A「残念ながら、神は時としてこのような者たちと巡り合わせます。そして、ときには彼らに見とがめられるときがあります。そんなときに、恐れをなして背を向け逃げ出してはいけません。そのような姿を見せると、彼らは余計に勢い立って襲いかかってくるでしょう。信念に基づき勇気を持って対峙し、相手を観察しその時々に応じた対応を行うことが肝要です。もちろん、その対応の中には逃げることも含まれます。」

B「戦場では、いかなる窮地にあっても我を見失わずに感情的になることがなければ、前線で冷静に作戦を遂行することが期待できます。」

A「そこです。今、あなたは地上の体験を経て自ら答えを得たのですよ。」

B「はい?」

A「感情的にならずに任務を遂行する。そうすることで、かつて汝の敵を愛せと語られたその言葉が目指し、神がお定めになった目的を達成することができるということです。あなたがかつてその身をおいた戦場における真の勝者とは、相手を殴り倒した者のことを指すのでなければ、何かを破壊し尽くした者のことを指すのでもありません。真の勝者とは、最後まで生き残った者のことをいうのです。確かに、戦場ではパニックになり自分を見失った者から先に死んでいきます。相手の言動によって怒ることは、こちらの感情を相手の言動によって支配させてしまうことを意味します。こうして人は自ら死地を招くのです。」