償いと試練編⑧

ある家庭内の出来事について(記録①)

 

 地上に降りた彼が生まれてから7年ほど経過した頃の話です。

 彼の肉体である脳はその働きが明晰とはいえず、彼と11歳離れた姉(以下、C)に比べ学校の成績に差があり、特に算数の理解に劣りました。

 そのころの彼の母(以下、B)の職業は、児童へ給食を提供するため公の施設で働く調理員でした。また、彼の父(以下、A)は、自動車教習所の教官でした。

 その日、Bの機嫌はよくありませんでした。職場内で思うところがあるにもかかわらず、その偽善性から口に出すことが出来ずにストレスがたまっていたからです。

 記録によると、その日の夕方、彼は居間で算数の勉強をしていました。距離や時間、速さから相互に連携して数値を求めるといった有名な数式の問題です。

 彼は、勉強自体嫌いではありませんでした。むしろ、積極的に机に向かっていた方で、机といっても当時居間で勉強していたので、居間にあるこたつを机としていました。

 彼の正面にはBが座っておりました。Bは座って黙々と編み物をしています。

 さて、彼が計算して求めた答えをBが答え合わせしたところ、そこに間違いがあると指摘されました。どこに間違いがあるのかBは教えてくれません。ただ、再度計算するように言うだけです。

 再度計算しても答えは同じです。やはり間違いであると指摘されます。もう一度計算し、さらにもう一度計算します。このとき、幼い彼には、編み物をするBの手元に力がこもっていることに気づけませんでした。

 彼の左頭部に衝撃があったのはこの時です。彼には最初何が起きたのか分かりませんでした。見上げるとBの無感情の目がそこにあります。Bは言いました。「なぜ、間違いが分からないのか。」「なぜ、正しく計算できないのか。」

 彼は黙り込んでしまいました。居間の時計が時を刻む、「こちっ、こちっ」という音がやたらと響きます。黙り込んでいると、Bは言います。「黙っていないで計算しなさい。」

 彼は諦めずに計算します。しかし、正解は分かりません。何が間違っているかも分かりません。それでも、母親から容赦なく手が飛んできます。答えが与えられることはなく、与えられるのは殴打です。幼い彼は思いました。

 

「僕は、何か悪いことをしたから叩かれているんだ。」

 

 彼を殴打するBの心境は次のとおり記録されています。これは、「隠されたもので明るみに出ないものはなく、陰にあるものはすべて光の下にさらされる」と書いてあるとおりです。

  • 職場では不満に思っていても言い返せなかった。そのことがストレスである。
  • 息子とは二人だけの空間にいる。何が起こったのか見ている者はいない。
  • 息子は幼い。多少叩いても反撃してくることはない。その点が職場とは違う。
  • 絶対的な力関係を示すことは痛快である。

 これによってストレスを発散したBは幸せでした。しかし、彼は不幸でした。

 その後、しばらく下を向き黙って耐えていた彼ですが、救いは次の二つです。

  1. 電話が鳴ること。なぜなら電話で会話すると彼への矛先が収まるからです。
  2. Aが帰宅すること。なぜなら腐っても夫だからです。

 A、Cともにこのことを知っていました。しかし、彼らが彼を助けることはありませんでした。

 Aについては、彼の安逸が損なわれるからです。Cについては、彼女も同じ穴のムジナだからです。