償いと試練編㉔

 彼の顧客となった女性(W)は、自分の目的の達成において彼が障害になる者であるとわかると、彼の利害関係者を利用し圧力をかけ、またW自身も執拗になって彼を問い詰めました。

 日常の体験というものは、そのすべてが霊の経験として記憶されるものではありません。例えば、起きたときにどのように顔を洗ったとか、靴を履くときに左足から履いたなどということは、魂の経験としてさほど重要ではないからです。これらは単なる肉体である脳からの電気信号に基づきます。

 魂の経験として記録される重要な体験とは、日常生活における体験が脳を経由し、魂にまで影響を与えるような体験です。これらは喜怒哀楽などの人間の精神を媒介しなければなりません。

 したがって、人間の肉体のほかに霊魂が存在するとき、霊だけではその肉体に宿ることによる目的を達成することが困難であるので、その中間体として精神が設けられることとなったのです。この三位一体型ともいえる仕組みは自然界に存在しており、物質を構成する原子がまさにそれです。原子はその核にプラスの電荷を持つ「陽子」と電荷を持たない「中性子」を有しており、その核の周辺をマイナスの電荷を持つ「電子」が飛び回り原子を構成しています。

 イメージするならば、

  • 陽子が霊本体であり、プラスの性質を有し、
  • 中性子が精神で、霊と肉体との中間体となり、
  • 電子が肉体であり、マイナスの性質を有する。

 となります。

 この"精神"については、エーテル、イーサンまたは光り輝くものとして、古くから宗教上の文献にその存在が指摘されており、真理探求の先駆者とされ、かつて中東のナザレにおいてイエスとして生活した霊が、その体を山上にて発光させた原因となったものです。

 Wが発する彼への詰問は、彼の脳で受信された後、そのストレス反応が全身へ及ぶに従って彼の中に一定の感情を生じさせます。このときの感情は、彼の霊へ苦しみの体験として印象づけるのです。

 これは次の重要な点を示唆しています。すなわち、我々の本質が霊であるとするならば、我々の霊を傷つけ得ることができる地上の出来事は、なにひとつ存在しないということです。

 霊は目には見えませんし、機械で計測できません。こうした類いのものを、例えばナイフで切りつけたり、殴ったりすることはできません。肉体と霊はあまりにも波長が異なるので目に見えないからです。一方で、ほかの霊が肉体を通し発した言葉は、それを第三者の肉体(脳)が受け止め精神を仲介しストレスとなることで、その第三者の霊に何らかの体験を付与します。しかし、その霊本体が苦しむことはあっても、これを傷つけることはできません。このように魂が体験を得ることができると同時に、霊自体が決して損害を被ることはないとする仕組みこそが、その霊が向上進化するように配慮されているところであり、神の無条件の愛が存在する証なのです。もっとも、霊の存在を真っ向から否定しては、この説明は成り立たないと同時に、我々が地上に存在する理由の説明も困難なものとなります。

 彼の向上進化を願う霊たちによって、今回の体験が彼の霊へよりよく作用しうるよう手を加えられ、実際にその手段として、彼を害することを願う霊たちが立ち回ったことから、彼は重度に苦しみ出しました。

 この悪しき霊達は四六時中彼を精神的に追い詰め、隙を見てはその脳に働きかけ幻影を抱かせたので、その結果、彼は自分の脳内で自殺することを繰り返し想像するようになったのです。

 悪しき霊のうち数名は、彼の自殺を望むものでした。その実現こそが、彼らの喜びであり、痛快ごとだったのです。彼らにとって、人の不幸は密よりも甘いのです。