21
天がその人に大いなる任を降そうとするとき、
必ずまずその心志を苦しめ、
その筋骨を疲れさせ、
その体を飢えさせ、
その身を窮乏させ、
やること為すことに幾多の障害を与える。
この言葉の内容が重要なのではありません。
この言葉を得るほどの状況に至った者が、かつてこの地上に存在したということが重要なのです。
22
人を相手とせず、天を相手とせよ。天を相手とし己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざることを尋ねるべし。
この言葉の内容が重要なのではありません。
この言葉を得るほどの状況に至った者が、かつてこの地上に存在したということが重要なのです。
23
彼女が私を害しているのは事実です。
彼女がどういった理由でそうなったのかは、地上の私に明かされてはいません。
ただひとつだけ言えることは、今の私が悲惨な慟哭のなか、かつて彼女を害した償いをしているのと同じように、かつての自分の惨めさや悪徳と立ち向かっているように、彼女にも償いの時が必ず訪れるということです。
24
かつて霊の世界にいるときに、私は自分の成長に必要な経験を得るため、意を決して地上へ降りることとしました。
天の計画に従って、私が順調に向上進化していくと仮定すると、いつかどこかの段階で、自分が想定した自分よりも視野が広くなる段階に達すると考えられます。
その段階に達すると、かつての自分では想定できようがない自分となっており、そうなってしまっては、地上生活のすべてを知った上で自らその生を選ぶという定義が崩れ落ちます。
天にいる頃のかつての自分よりも地上の自分の方が高次となるからです。そもそも、高次となることが地上生活を送る目的なのです。
すると、霊の世界にいたころに自分が選び取った選択に誤りが含まれる可能性が十分に考えられてしまい、そうなると、神の完全性の定義に疑問符が付けられます。
この疑問を解決するには類魂という、自分の総括体として地上の体験を共有する存在の定義が必要です。
私たちは、地上にあるうちは肉体という牢獄によって物理的に隔離されたうえ、幻で偽りの個性を尊重することが理想とされています。
なぜなら、私たちは本来類をともにする者達と一体となるべき存在であり、この類を同じくする者達の総括体である類魂から個別に離れてしまう状況に、故意に、またはそれと意識せず陥っているのが地上における私たちだからです。
地上の私たちは類魂の一部が顕現したものです。類魂にはわれわれ人類の他、動物や植物、その他の惑星の住民までもが含まれます。それらは類魂の統率者によって指導され、私たちの地上の体験はすべて記憶され共有されます。そして、私たちの苦しみは、類魂の発展のために供されるのです。
私たちは地上に降りることを独断するのではありません。私たちひとりひとりが直接神からの意志を受け地上の生を選び取るのでもありません。たったひとりの守護霊の判断によって決まるものでもありません。
私たちは、私たちの一部であり全体でもある類魂の統率者によって、類魂全体の発展へと繋がるように地上という舞台が選択されたのです。
霊の存在を忘れてはならないように、類魂の存在を忘れてはなりません。そこには私たちの苦しみの一つ一つが刻みつけられており、私たちの成長が記録されているからです。
25
物質に包まれている私たちは幸いです。
霊がむき出しでないために、低次の者達からの悪意が直接こちらの霊に干渉しないからです。
しかし、霊が向上進化するに伴い、その感受性が発達し悪意に敏感になるにつれて、未発達霊の悪意は猛烈な意思をもって鋭い槍となり霊を襲い悪影響を与えます。
彼らの悪意は文字通り実体ある闇であり、こちらを包み込もうと猛烈な勢いで取り巻き始めます。
そこで神理を得た高次の者は、これらから霊を守るべく自ら思念を放射し、悪影響から身を守る必要があるのです。
この思念は闇の対極であり、まるで磁石の両極のように闇と反発する。この光の思念の源泉は神である。神が存在し続ける限り途絶えることはありません。また、その思念は己が認知することによってその輝きを増します。認知するために必要なのは、あなたがこれまで苦難と葛藤と慟哭の体験を経て理解してきた神理であり、その知識であり理性であり揺るぎない確信です。
こうして、悪意ある者達から差し向けられる闇は磁石が反発するように光の思念から遠ざかり、それだけでなく、その闇はそれを発した張本人の元へ帰り、彼らを包み込みます。
この思念は、あなたが近い将来霊の世界へ帰還したとき、類魂の統括霊から大任を受け、自らの罪ゆえに苦しみ続ける霊を救済すべく、低き暗黒の世界で活動する際に必要不可欠なものです。
ナザレのイエスは、地上時代に彼を大いに苦しめた者を救済するため、悪がたむろする低き世界へ降りていきました。
この光の思念、愛の思念がなければ、周囲を取り巻く悪意ある者に取り囲まれ、容易にその身を滅ぼしてしまいます。
将来派遣されることとなる低き世界を思うとき、地上の世界は粗雑とはいえ、まだ幼稚であり余地があります。
あなたはまだ濃厚な悪を知りません。
地上で肉体を持つ人間は霊的に幼稚ですから、彼らが行う悪などたかが知れています。彼らができることは、せいぜい肉体を滅ぼすことです。
肉体が滅ぶことを恐れることはありません。霊を滅ぼすものを恐れなければなりません。
霊を滅ぼす者は霊の世界に存在し、彼らの悪意は強烈です。彼らは至極の世界の対極に属する者たちです。地上で顕現される数々の悪は、彼らを発信元とするその投影に過ぎません。
地上の災難に根を上げている程度では、主の命においてやがて対峙することとなる霊を崩壊させし濃厚な悪の片鱗を臨むことさえできません。その先に、あなたが救済しなければならない娘がいるにもかかわらず。