償いと試練編㊾

 霊が未発達な者は、彼らを救済するために延ばされた救済者の手を刺し貫きます。だからといって、愛を実践し善を行うことを躊躇してはなりません。なぜなら、悪は行うことを躊躇しないからです。

 神理は徹底して為されなければなりません。そこに個人の思い入れが介入する余地はないのです。事務的に、冷静に、いかなる犠牲をもいとわず神理を実行することが肝要です。

 例えば、あなたの妻が神理を行うあなたを侮辱したとします。また、あなたの母が、あなたを裁き、あなたの耳元で大いに不平不満をつぶやき続けたとします。このようにして彼らが悪を犯したとして、それがあなたと何の関係があるのでしょうか。あなたはそんな程度の低いことに関わらず、善を行い続けなければなりません。神理に従い善を行うことは、神の偉大なるご計画を遂行することだからです。

 あなたの信仰をあざけり笑う彼らに、彼らの考えがあるように、私には私の考えがあります。その考えは、真理を探究し続け、その善を行い続けることです。私が私の考えに従うように、彼らが彼らの考えに従い悪を行ったとして、あなたが善を行わない理由にはなりません。

 罪を犯したものは、自らその罰を清算し責任を果たさなければなりません。その者が犯した罪の責任は、犯した者にあります。その責任が、神理を行おうとする者にあるとでもいうのでしょうか。

 悪を遂行する彼らは「その責任はお前にある。」と目をとがらせて言うでしょう。彼らの背後に立ち、真理探究を阻もうと画策する暗い者たちは、そのようにしてあなたを怒らせ、戸惑わせ、あなたが神理に反するよう誘導し、神理から遠ざかることを目論むのです。

 真理探究を拒む者、善霊たちがその対応に頭を悩ます未発達霊は、人が彼ら以上に神に近づくことを嫌悪します。それだけではありません。彼らは自身と同じように神から遠ざかる者を増やそうと活動するのです。

 あなたは人が犯した悪の如何にかかわらず、善を行い続けなければなりません。人から向けられたすべての悪行に対して、すべての善で報いるのです。怒りに苛まれ、神理から遠ざかりそうになったときは、そのことを思い出してください。

 あなたが自ら罪を犯し、神理から遠ざかるようなことをしなければ、あなたの魂が誠に傷つけられることは起こりえません。

 地上は幼き魂にとって、そこでの体験を通じ向上と進化をもたらすための学習の場です。

 実際の幼稚園は基本的な言語であり、かつ上級に進級するために必要な知識を先生が教えます。しかし、その先生はやはり同じように地上で体験を得るべく降下した霊の一人であって、地上の人間のひとりです。

 彼らの肉体は教える立場にありながら、その心、その動機は地上の概念に縛り付けられ、たかが知れています。

 あなた方の守護霊は、魂の教育の場である地上で真実の愛をもってあなたを教える先生です。日常生活に追いまくられ、地上単位の視野に制限されるような教師ではありません。

 守護霊は、あなたの霊の進化に第一義的に責任を有し、あなたと趣味嗜好を共にし、あなたを理解し、あなたへの愛に端を発し、生徒を教えることで自らも向上せんとする熱意に燃えます。

 地上での教師は肉として近くに存在するが、霊としては遠く、守護霊としての教師は肉として遠いが、霊としては間近に存在し、かつ四六時中、絶えることなくあなたを守り導いているのです。

 なによりも、その教育の場の看守は、この世界を創造した偉大なる神ご自身であるので、あなたが、自ら施設から飛び出すようなことをしなければ、あなたは神の保護のもと、安全な幼稚園内で最も適した教育を受けることができます。

 そこでは懺悔のうちに一つ一つの過去の罪を償いつつ、歪んだ心を正し、苦しみの中に一歩ずつ向上するため、時には涙に暮れ慟哭にむせび泣くこともあるでしょう。しかし、苦しみや悲しみの体験を経て魂が獲得する神の栄光に比べれば、それがなんだというのでしょうか。あなたが感じる苦しみは、絶対的存在が管理する環境下において与えられているものなのです。

 苦しみや悲しみそのものが、あなたの魂を破壊し得るとでもいうのでしょうか。魂は、神がそうであるように永久不滅です。安心して、正々堂々と、真正面から純粋に苦しみの体験を享受すれば良いのです。

 恐れることはありません。あなたは人が犯す悪のいかんにかかわらず、善を行い続けることです。

 ただし、悪を働く者があなたへ実現不可能なことを要求してきた場合は、不可能であることを毅然と伝えなければなりません。彼らの心証を害することを心配し、なまじ中途半端な態度を取ることは、できないことをできると約束してしまうことに等しいのです。

 あなたが中途半端な態度でいると、幼稚な彼らは、彼らが自ら刈り取らなければならない悪の芽を刈り取ってくれると期待してしまいます。その結果、あなたは枯れたイチジクの木に等しい、場合によっては偽善者となってしまうことがあるのです。

 できることは最大限行いますが、できないことをできるというのは偽善です。救いを求め近づいてきた者をさらに悲しませる結果を招いてしまいます。