償いと試練編㊽

○ 結婚9年目1月 下

 人にとって最大の苦しみとは何でしょうか。

 病気やケガ、あるいは歴史に刻み残されている凄惨な拷問によって肉体的苦痛が与えられ、それらが取り除かれないことでしょうか。その痛みがいつまで続くとも分からず絶望することでしょうか。

 あるいは日常生活の問題が解決されず、精神的に思い煩い、葛藤し悩み続けることでしょうか。

 いずれも違います。真の苦しみとは、苦しむことではありません。なぜなら苦しみは神によって我々に与えられるものだからです。

 神から与えられた苦しみを遙かに凌駕する苦しみとは、神から何も与えられないことです。すなわち、無の中に置き去りにされることです。これを地上の人類は「虚無」という言葉で表現しております。

 我々の本質たる永久不滅の魂が存在するにもかかわらず、その存在が無の中に放り込まれるのです。

 我々は独りでその存在を証明できるものではありません。周知に人がいて、物があって、あるいは幸せや苦しみを感じることで、始めて自分を認識できるのです。

 これらが取り去られたのち、周囲に何もない、いや、援助もなければ導きもなく、敵も味方も苦痛もない環境に放り出され、何もないという表現が甘いほどの無に取り残されたとき、依然として自我を有するあなたの魂はどうして自我を認識し得ましょうか。自我の証明を求めても、周囲は完全な無です。しかし、依然としてあなたの自我は存在し続けます。

 魂が存在するという確証が得られるただそれだけで、何か絶対的存在に愛されているという確信につながります。その絶対的存在に近づくほど、我々の存在は実体があり、真実であり、光に満ちた確かなものとなるのです。

 しかし、地上にある者はかつて自らの行いにより、その絶対的存在から離れてしまいました。それでも神は見捨てることはありません。

 自然法則を創造し、そこに苦しみを生じさせることで、我々の存在を確かなものとし、さらには苦しみによって我々が自ら反省し、心理を学び、道を修正し神に近づくことで、その存在が確かなものとなるよう、つまり、完全な無から少しでも遠ざかるよう配慮されます。

 言葉に生じる矛盾を承知して、あえて次のとおり言います。

 完全な無の世界は確かにあって、その世界に魂が取り残されることが、最も畏れるべき最大の苦しみなのです。だからこそ、愛の象徴たる我らの神は、世界を創造した際にわざわざ我々が拠ってたつことができる苦しみを創造されたのです。

 さきほど、「その絶対的存在に近づくほど、我々の存在は実体があり、真実であり、光に満ちた確かなものとなる。」と言いました。

 そして、「地上にある者はかつて自らの行いにより、その絶対的存在から離れてしまった。」とも言いました。

 すなわち、絶対的存在から離れるほど、その魂は不確かで、偽善であり、なにより暗く不鮮明なのです。

 そのような者が絶対的存在に急接近したらどうなるでしょうか。

 まず、彼らは不確かであるから、確かな存在を認識できず取り残されるでしょう。動物が人の仕事を認識できないのと同じです。

 次に、彼らは偽善であるから、真実の者たちと相まみえるどころか、目を合わせることもできず、やはり取り残されるでしょう。人が良心に苛まれるのと同じです。

 また、彼らは暗く不鮮明であるから、輝く存在を目の前にして目がくらみ、立ちすくみ取り残されるでしょう。暗闇から明かりの中に入った人は目が眩み、何も見えず、その場から動けないのと同じです。

 この状態にすでに神は対応済みです。彼ら一人ひとりの魂の状態に応じて、その段階に応じたふさわしい程度の守護霊に彼らを補佐させ、彼らが孤立し自分を見失うことがないように配慮されます。

 読書が好きな人物には、同じように読書を好む霊を割り当て、運動が好きな人物には、やはり同じようにスポーツを好む霊を当てます。趣味嗜好が異なる霊では、その人物の考えが理解できず、したがって、適切な助言ができようはずもありません。

 地上の低級的思考にどっぷりと漬かってしまっている人間へは、いかなる高級霊であってもその思考を届かせることは困難であり、ましてや意識を代えさせることはできません。むしろ、それができるのは、地上の彼らと近しい波長を有する地上に近い霊界のものたちです。

 すべては、地上の彼らが独り取り残され、無に置かれることがないようにとの配慮です。そして、彼らには彼らにふさわしいものが与えられます。それは、娯楽であったり、肉体的欲求を満たすことであったり、苦しみを受けることであったりしながら、彼らの行動、言動は自らの状態を顕していきます。

 地上のすべては実体なく幻であることは間違いありませんが、仕方がないのです。こうして地上で体験を積んでいく以外に、地上に身を置く未熟な魂が向上する方法があるとでもいうのでしょうか。

 実体なく幻の体験が、同じように実体が薄く、不気味に地上でうごめく不確実な彼らの進化向上にとってもっともふさわしいのです。人は、光り輝く体験を欲します。しかし、暗闇から急に太陽を見たらどうなるでしょうか。暗闇にあった人間は、しばらく木陰での体験を通して目を慣らす必要がどうしてもあるのです。

 地上の彼らは人を侮辱し怒らせるが、案ずることはありません。なぜならこの怒り自体が真実性のないものだからです。霊を傷つけるものではありません。

 また、地上の未発達な者が、進化せし者を目の前にしたときの反応はどうでしょうか。これはかつてイエスとして知られる霊が苦難として体験しています。

 目の前に自分よりも光輝く真実の者を目にしたとき、偽善で暗い者達はその事実を隠そうとします。自分が偽善者であることが知られては困るのです。その事実が明るみにならぬよう、光り輝く者を排除しようとします。

 同時に未発達な者は彼らが窮したときには、彼らよりも進化した者へ救済を求めるでしょう。

 こうして、未発達な者は、未発達であるが故に、彼らを救済する者を迫害するのです。