崩壊と創造編⑧

 私たちの霊は、地上で肉体を持って生まれてくると言われています。それでは、そんな私たちの霊はどこから生まれてくるのでしょうか。

 地上において私たちの霊が表現するとき、通常は肉体の五感を使用します。私たちはこの五感の能力以上のことは表現できません。したがって、肉体を通して顕現している私たちは、その五感によって絞られた一部の表れでしかありません。

 そのような概念を延長させるとき、仮に私たちの肉体が死を迎え、その霊が肉体から離れた後は、霊は許された範囲以上の自我を表現できないことになります。しかし、その表現できる範囲は、肉体を持っていた頃の範囲と比べると格段に広がっていることがわかります。つまり、「死」と呼ばれる段階的な成長過程を経るたびに、私たちは古い体を脱ぎ捨てるように新しい自分を発見し、これまで以上の自分を表現できるようになっていきます。

 この成長過程を繰り返していくとどうなるのでしょうか。ある段階に達したとき、昔の自分の表現体系を振り返り、なんと矮小だったのかと思うに違いありません。誰でも自分の幼児の頃を思い比べれば、このことは容易に想像できることでしょう。

 人は段階的な成長過程、つまり肉体の死とも呼ばれる生まれ変わりを繰り返し、今まで以上に大きな自分に近づいていくことになります。この大きな自分のことを類魂と言ったりもします。

 最終的なゴールがあるのかどうかはわかりません。分からなければ、神の概念を当てはめることが最も容易です。我々の行き着く先は神に近づくこと、すなわち、神の御許なのではないでしょうか。絶対的大権現として神がただ一人おわすなら、そこに近づくほど私たちの間には相違がなくなります。だから、私たちは神の子と言い伝えられているのかもしれません。そして、神の前では私たちは兄弟なのかもしれません。