教育編③

 私たちには、守護霊へ相談することが許されているとはいうものの、その祈りは身勝手で地上的打算に満ちた要望をかなえるための祈りであってはいけません。そのような祈りは祈りとはいいません。

 また、守護霊への相談は、人間側の条件が整わないかぎり行うべきではありません。条件が整わなければ邪な霊が介入しやすく、回答の純粋性に疑問が付けられてしまうからです。

 条件とは決して特別なものではありません。すなわち、体調がすぐれていること。心配事がないこと。感情が高ぶっていないこと。精神が安定していること。満腹でないこと。つまり、なにごともバランスが取れており、平衡の状態であるときこそが相談するタイミングとしては相応しいのです。

 神への祈りはそうではありません。祈りの定義としては守護霊への祈りと同じですが、苦しみもだえる者が、心を穏やかに落ち着いて救済を求めよというのはどだい無理な話なのです。

 究極の苦しみの渦中にある者の魂は直情的慟哭を生みます。心からの魂が叫ぶのです。これが純粋な祈りの部類に当てはまるのであれば、それは確かに神に届きます。

 苦しみそのものの除却を祈るのではありません。苦しみは自然法則によって生じているので、それが無くなるということは万物を統率する法則が崩壊することを意味します。

「私を導いてください。困難を乗り越える勇気を与えてください。私が進化向上するよう道をお示しください。」

 このようにして、心が落ちつき冷静になったあとで守護霊に加護を求めても遅くはありません。心を落ち着かせ、体調が回復してから、ゆっくりと語りかけます。

「これこれこういう問題が生じています。どうしたらよいでしょうか」

 さて、酒に大いに酔った者がかつてこんなことを言っていました。

「俺はこの家の主人だ。言うことを聞いて問題を起こすんじゃない。そして、俺の気分が収まらなければ暴れてやる。」

 いわゆるこの「家の主人」は、日頃から酒を飲み、困ったりストレスを抱えるとその量が増えますが、この酒に酔う者に本当に一家が統率できると思うのでしょうか。困ったら酒に頼ろうとする、その程度の主人だから一家がまとまらず問題が生じるのです。

 神理において、一家を統率するとは具体的にどのように日常生活を過ごすことを言うのでしょうか。

 困っている者がいれば話を聞き、苦しんでいる者がいればそれを配慮し取り除くよう四方奔走し、自身が受ける損害にかかわらずこれを助ける。

 気に入らなければ酒を飲み、辺り構わず叫び散らし、腹いせに無理難題をふっかけ、さらには、気分が収まらなければ暴れるなどとは、主人どころか彼の魂は幼稚園児の部類に属します。

 一家を統率する者の家族に対する姿勢は、そのまま他者への慈悲の姿勢となり、その光明は神理に通じます。

 霊的に一家を統率するため日夜試練に臨む者は、近い将来、一家のみならず特定の目的を持った霊団の将校として活躍する立場にあることを自負しなければなりません。

 あなた方は将校になるため、地上でそれに必要な訓練を受けているのです。

 高級将校の指揮を待つ霊団は数多く、研修課程である地上の試練は厳しく容易ではありません。