神と仏編⑫

 戦争や災害で食べ物を失った人へ無償で食べ物を与える「炊き出し」。

 困っている人を助けようとするとき、私たちは、この炊き出しを提供する側と炊き出しを受ける側のどちらに立つべきなのでしょうか。

 これは、「人を助ける」という言葉の意味を問うことになります。

 炊き出しを提供する側は自分に余裕があります。自分の安全が確立されているからこそ他人に提供できるのです。自分の生活が確保され、自分の腹が満たされているからこそ、他人のために尽くすことができ、他人に手を差し伸べることができるのです。

 それでは、炊き出しを受け取る側の列に加わり、炊き出しを受け取る者たちとともにその苦しみを共有する、といった行いはどうでしょうか。確かに、その列に加わることで他の人が受け取る炊き出しの量は減るでしょう。同時に、炊き出しを受ける者は間違いなく空腹であり、明日への展望にかける余裕がなく、常にその忍耐を試され、自分の限界と向き合い続けます。

 そのような環境にある者たちと同じ境遇に身を置き、ともに苦しむということは、崇高な自己犠牲のひとつであるように思います。

 炊き出しを受ける者たちは、助ける対象ではないのです。ともに働き、苦労する仲間なのです。炊き出しを受ける必要があるほどに小さくされている人々とともにそこに居続け、共にいて「苦しむ」ことこそ重要なのです。

 苦しむ者を救いたければ、その苦しみを取り除こうとするのではありません。その苦しみと共にあること、苦しむ人と共に居続けることこそが、彼らを救うことに繋がるのではないでしょうか。

 私を彼らのように最も弱い者のうちのひとりにしてくださったのは、神が私にしてくださったことのひとつなのです。

 飢えた人にパンを与え、さまよう人を家に招き、裸の人に衣服を与え、同胞に助けを惜しまないことです。

 飢えた人と同じように飢え、さまよう人と同じようにさまよい歩き、裸の人と同じように着る物を失い、同胞に助けを惜しまないことです。