教育編①

 誰かがあなたに助けを求めてきたら、あなたはどのような犠牲を払おうと助けないといけない。助けることを躊躇してはいけない。なぜなら、これを怠ると将来自分が困ったときにどうしようもない状況になって、同じように、いや、それ以上に辛い状況になるからね。

 もし自分が他人の行為によって苦しむなら、それは過去に自分が同じようなことをして他人を苦しめたからに違いない。その苦しみを受ける自然法則は神が創造したものなんだけど、神は苦しむ私たちをみてほくそ笑むのではない。

 日常生活に苦しめられ、涙する我が子を見て喜ぶ父はいない。いたとしても、それは真の父ではない。私が言う父というのは、天にまします我らが父のことである。

 むしろ、その苦しみが子の成長にとって欠かせないものであり、また、子が父に近づき、さらなる栄光に満たされるために経験しなければならない苦しみであるとして、どうしようもなく涙する我が子を断腸の思いで見つめているかも知れない。

 苦しみは償い清算することだけが目的ではない。神は子がその行為の結果を償い苦しむことで、今まで以上に神理を流れ込ませ、今まで以上に神に近づけさせようと配慮している。

 だから、すぐそばに必ず救援措置を備えてくださっている。

 仮に救援が適わなくても、それによって地上でのあなたは滅び、さなぎが蝶になるように天の父へ一歩近づけるのだからそれでいいではありませんか。

 どうせ苦しむなら、上を向いて笑って苦しむことにしよう。

 下を向いてもなにもかわらない。

 上を向き、笑いながら涙を流そうじゃないか。

 だけど、誰かが目の前で暴言を吐いたり、誰かを苦しめたりしている場合は、それがその時点であなたが判断して異常だと思うのであれば、注意し諫めなければならないと思う。そこにまで寛容さを求めるのは違うと思う。

 百聞は一見に如かず。

 いくら目で見て耳で聞いても、体験しなければ人は分からない。自ら体験して初めて人は「ああ、なるほどね」と理解する。

 この法則があるので、あなたがかつてあっちの世界にいたときに、あっちの世界の方からこういわれたはずである。

「うん、きみはかつて助けるべき人を確かに苦しめたよ。その事実を知ったところまで来たんだね。後悔するところまで来たんだね。でもね、かつての罪を償い、それ以上先に進むためには、同じような方法で今度は君が苦しみ、その苦しみを理解しなければならないよ。なぜなら実際に体験しないと分からないからだよ。そして、悲しみと慟哭の体験を経て一度理解すれば、罪を償うどころか、これまで以上に神理に接することができて、父に近づいたり幸せを感じたりすることができるよ。苦しみを体験しないと、これまでと同じように、むしろまた同じ方法で人を苦しめて後悔することになるんだよ。これでは、私はかつて人を苦しめました。ごめんなさい、もうしません、と発言した自分の言葉がウソになってしまうよ。」