神と仏編⑬

 ある朝、彼は妻の要求に従い、寝ている娘をトイレに連れて行こうとしました。このときの彼は、昨晩から妻に何も食べさせてもらえておらず、また、朝食も食べられないことが分かっていました。彼は自分で自分の体を観察し、自分の肉体に余裕がないことを承知していたのです。

 妻はこう言いました。「(娘の)おしっこが漏れちゃうからトイレに連れて行って。」

 このとき、横になって休んでいた彼は身を起こすときにこう思いました。「そりゃ大変だ。」

 彼は、自分がこのように思ったことを驚いたのです。なぜなら、この妻の一言に不快な思いをさせられ、またいつものように我慢を強いられることになると覚悟していたからです。彼はこのとき直感したのです。いまの声こそが彼の守護霊の声であると。

 人が思うときや考えるとき、結論を出すときに心の中で響くその声こそが守護霊の声だということです。この声は、呼吸や心臓の鼓動よりも身近にあり、近すぎるがゆえに気がつかないほどなのです。

 人は地上で生活する限り、神と直接会話を交わすことはできません。神に近い方々とお話をすることもできません。それができるのは、人間を援助する守護霊です。迷うときや葛藤するときは、心の中でどうするべきか思うべきです。そうして導かれた回答こそが守護霊の声です。すぐに回答がないのは、守護霊が上部の善霊達に相談しているためです。後日、必ず何らかの回答があるはずです。

 それでも回答がないというのは、人間が無意識のレベルでその回答を拒絶してしまっているためです。人間は苦い薬を好まないものです。しかし、本人のためになる薬というのはたいてい苦いものと相場が決まっています。

 守護霊は万能ではありません。地上生活を送る人間の近くにいて、その人間の趣味嗜好を同じくする者なのですから、ある意味で人間たちの最大の理解者です。遊びが好きな人間であれば、守護霊も同じように遊び、仕事が好きなのであれば守護霊も仕事をします。

 人間が理不尽だと思うことに憤るとき、守護霊も同じように怒ろうとします。これはすなわち、守護する人間を守ろうとして怒る守護霊を、その人間の霊が止めることもできるはずだということを意味します。方法は簡単です。人間が怒ろうとするとき、その人間がこう思うだけでよいのです。「ちょっと待て、怒らずにいてみてくれ。」

 あまりにも簡単なことですが、実現するとなると難しいものです。言うは易いが行うは難しい。

 その人間と類をともにする守護霊でなければ、その人間を理解することはできず、寄り添うこともできず、教え導くこともできません。

 苦しむ人を助ける、という大義名分は立派ですが、日常生活という魂の修練現場においては、ただ「この人の霊が向上するにはどうすることが最も適切か」を考えるべきではないでしょうか。人がそのように考えるとき、守護霊も同時にそのように考え、人と守護霊ともに向上進化の道を辿っていくこととなるのです。