償いと試練編㊼

 私は、傲慢な者を救えません。

 傲慢な者が苦しみ、その重圧によって彼らが膝を屈することになるまで苦しみながら待つしかありません。傲慢な者が心から助けを求めるその刹那、私には彼らを救う義務が生じます。

 しかし、この場合、苦しみを装い助けを求める声にだまされてはなりません。苦しみを装う者は、苦しみからの救いを求めるのではなく、自分の苦しみを人に負わせることを求めているに過ぎないのです。

 自分が悪の種を蒔いたのにもかかわらず、その芽を他人に刈り取らせ、自分は安住しようと目論む者達です。彼らの霊が住み着くこととなる世界は上の境涯から見るとみすぼらしく、見せかけの平穏で包まれる暗闇の世界なのです。

 そこから向け出すには己の不備を自覚し、苦しむことで進化向上するほかありませんが、彼らの安住の地に彼らが向上する要素は乏しいものです。

 ゆえに彼らはそれが苦しみと知らずにそこに横たわり続けます。

 そして、自らが身を横たえるその場所がいかに醜く悪臭たれこめる場所であるかに気づくとき、彼らは進化向上するため、また、これまでの悪行を清算するための試練を要求します。

 地上とは、そういった者達が集まる場所です。

 彼らは身の程に合わぬ上位の世界に身を置くこともできます。しかし、そこで彼を取り巻く周囲の者はみな彼よりも成長している者達なのです。成人の中にひとり置かれた幼児は守られますが、その幼児は不憫です。彼の存在ほど、周囲の成人に迷惑をかけるものはありません。

 このことを自覚した幼児は罪を自覚し、恥を覚え自ら求め出します。幼い自分よりも、さらに幼い者達の集団の中に身を投じることで試練を乗り越えることを。

 彼は周囲の幼稚さに大いに苦しめられることになりますが、逆の立場で他人を苦しめることになるよりは救いがあります。

 

 ところで、霊が地上で一時的に生活することになったその目的である進化向上とはどのような意味を持つのでしょうか。

 それは誠心誠意、真摯になって神の真理を追い求めることに尽きます。神理を理解し心から賛同することに尽きます。

 それら神理にたどり着くための唯一の方法として、苦しみや悲しみが存在するのです。

 かつて怒りに囚われていたあなたを振り返ってみてください。その頃のあなたは今に比べ神理から離れていたことは、あなた自身が認めていることではありませんか。

 神理から遠ざかるほど人は醜くなります。

 なぜあなたは怒るのでしょうか。それは単にあなたが神理から離れ、神理を理解していないことによります。

 彼の母は言いました。彼の息子であれば、この窮状をなんとかしてくれると。

 はっきり言いましょう。

 自ら悪の芽を蒔いておきながら、悪の芽が育たないよう誰かがなんとかしてくれるとは何という無知でしょうか。

 こうした無知な者に神理を教えるために、仮にあなたが彼らの守護霊を仰せつかった場合、どのような手段を講じて彼らの進化向上を図るべきでしょうか。

 それは地上であなたが体験したとおりです。

 苦しみが与えられ、その結果、偽善の反省ではなく、心からの慟哭にむせび泣くときが到来するまで間近で待機し、ここぞという時に一斉に、全力で援助救済し、彼らが受け取ることが許される範囲の神理が到来するよう配慮する。

 実際に、あなたはこうして救済されてきたではありませんか。