償いと試練編㊻

○ 結婚9年目1月 上

 他人の悪意によって自分の悪が呼び起こされるとき、己を制する声が響きます。

 「自分に厳しくあってください。あなたに人を裁くことができるのでしょうか。」

 その声がどこから聞こえたのか分かりませんが、たしかに内側で力強く響きます。

 そのとき、わたしの魂は妻から受ける非難に対して確かに焦りを覚えていました。

 それは私の非難に繋がることへの焦りであり、容易に怒りに結びつきます。

 あれは何の声だったのでしょうか。

 焦りを覚える魂にあのように落ち着いた声は出せません。

 もちろん脳が自発的に叫んだ声でもありません。脳はただの変換器なのですから。

 この脳の受信機能を狙って悪しき者たちが群がった結果、魂まで影響を受け怒りにさいなまれることがあります。彼らは魂そのものに取り憑くことは許されていません。

 彼らが利用するのは、あくまで彼らと類をともにする物質でありその肉体です。

 また、脳の障害を原因として、異常な行動を取る者の魂は、必ずしも罪深いとは限りません。彼らはその罪を認識できないからです。

 一方で、その脳の機能が万全たるうちは脳が行動を調整しますが、その機能の衰えに従い、幼稚な魂が純粋に行動へ現れるようになった者がいます。

 彼らには神の自然法則によって罪が与えられるものの、それを受け付けようとしません。そして、それは限りなく不自然な状態に近いのです。

 神の自然法則によって与えられた罰を逃れ続ける者の末路を見てみることです。

 彼らの魂胆は黒く偽善は明白であり、また、その姿は退化し一見して肉体が進化する以前の動物のようです。

 苦しみは逃げることなく、それを受け止めることが自然なのです。

 そして、苦難を受けるにおいては、次のことを忘れてはなりません。

 すなわち、地上は魂にとって仮の、一時的な滞在地であり、幼稚な魂が向上するために必要な体験を積むための旅先に過ぎないこと。

 彼の本来の住処は別にあり、毎晩睡眠とともにそこを訪れ、起床とともに地上へ派遣されているということ。

 苦しみは、各々の行為によって自然法則に従い自動的に生じ付与されるものであるので、人が受ける苦しみを他人が止めることはできません。

 したがって、罪を犯した人は苦しむか、苦しみから逃げるかの選択を強いられることになります。

 人の十字架を一緒に背負うことを選ぶ者がいます。

 苦しみから逃れるために、他人に苦しみを負わせることを選択する者もいます。

 苦しみを負わせられた者は、その苦しみに甘んじるべきでしょうか。甘んじよう。その代わり、本来苦しみを負うべきはずの人であった者へ、必要以上に情けをかけることは止めよう。

 他人は日向心の人の心を変えることはできません。

 彼らは自ら心を改めなければ、変わることはありません。

 彼らが心を変える唯一の手段は、人からの説得ではありません。苦しみによって自らが自らの心を入れ替えるほかにないのです。