神と仏編⑳

A「あなた方の知らないところで、そうしている本人たちも知らないうちに、あなた方のために骨を折っている霊がいます。その者たちが負担した犠牲のためにも、あなた方はその成長の道を進み続けなければなりません。

 イバラの中で傷つき痛むあなた方に救いの手を差し伸べるため、同じようにイバラの中に飛び込み、あなた方を探し出し、血だらけになっているにも関わらず、笑顔であなた方に手を差し伸べようとする者が、確かに存在するのです。

 そのような血だらけの救援者たちから見れば、今のあなた方は完成された存在ではありません。その点を勘違いしてはいけません。言っていることが矛盾することを承知で言いますが、今のあなたはすでに過去の者であり、常に発展の途上にあるのです。その道は永遠に続きます。その終着点は、神のみぞお知りになる事柄です。」

B「しかし、地上で肉体による制限を受けている以上、人の認識能力には限界があると思います。人は五感の窓を通してしか物事を捉えることができません。未来の成長した自分の姿など、分かりようがありません。今の自分を絶対的な者と考えなければ、日々の生活を送ることも適いません。見てください。地上は困難と悲しみにあふれているではありませんか。」

A「地上の困難と悲しみは、あなた方の認知能力を広げるために存在するのです。また、あなた方を害する者たちは、あなた方が永遠に成長していく過程の途中で、一時的に現れた存在に過ぎません。彼らに対して憤怒することはあなた方の自由ですが、その憤怒する、という行いを選択することで、神から遠ざかる行為を自ら行うことになります。

 地上の困難と悲しみに恐れをなし、もはや人の手による打開策がないとして神に救いを求めるのならば、まずは、人間自らが神に近づくべきではないでしょうか。神から離れる行いや心の状態を自ら招いておきながら、それでも神へ救いを求めるということがどういうことか、一度考えてみられてはいかがでしょうか。」

B「私は、いままで一度も神の姿を見たことはない。それにも関わらず、神に近づくとはどういうことか、まるで理解できないが。」

A「今のあなた方の心の状態では神から遠ざかっているので、神の御姿をご覧にあることはできないでしょう。携帯電話の電波は目に見えるでしょうか。あなた方が呼吸する酸素は目に見えるでしょうか。あなた方が人を愛するときや我が子を愛らしいと思うとき、その愛情は目に見えるでしょうか。目に見えなくとも、確かに存在するのではありませんか。

 ここから先は、あなた方が自由意志によって選択していただく事柄です。あなた方が神の御許へあなた方の心の状態を近づけようとするとき、そのために行うことはあなたの迫害者へ怒り狂うことだと思いますか。それとも、あなたの迫害者を許すことでしょうか。

 よくお考えになってください。穏やかな日々を望みながら、自ら荒天へと足を踏み入れることになりはしないか。あいつが悪い、こいつがいけないと言って、自ら心象を荒立てることで、今よりもさらに寛大な心を身につける機会が与えられたにも関わらず、理由をつけてその機会を自ら放棄することになってはいないでしょうか。」

B「あなたの仰っていることが分からないので理解に苦しみます。私が思うところは、相手がこちらに拳をあげてきたら、ナイフで応戦すべきです。ナイフで向かってきたら、銃で制圧するべきです。こちらの身の安全を図るため対応しなければ、こちらの大切な存在も守れません。穏やかな心で相手を許す? それでは伺いますが、あなたの子供が殺されてもあなたは同じようなことが言えると思いますか?」

A「目には目をもって処置し、歯には歯を持って対応する。かつてそのような教えがふさわしい時代がありました。それは光年の彼方の古い出来事ではありません。現代はその歴史の途上にあります。

 私は、あなた方へ自分の身を守るために抵抗してはいけない、とは一言も言っていません。むしろ、そのような状況下では自分の身を守るため必死に抵抗すべきです。そして、自身の身の安全を確保した後に、あるいは、両手両足を縛られた状態に陥り、もはや為す術無しの状況に落とされたときに、その憤怒するであろう出来事のあまりにも理不尽なことに神へ救いを求めるのであれば、まず自ら神へ近づくことが賢明ではないかということです。

 私は、そのためにあなた方が実践できる可能性があることを述べさせていただいていおります。空を飛行しなさい、などとは申しません。あなたが憤怒する原因を許し、すべての人に穏やかな心で接することは、難しいことかもしれませんが不可能ではありません。その上で、現実的、物質的問題に対処してはいかがでしょうかということです。」

B「そう仰る以上、あなたは今ご自身が言ったことができると考えてよいのだな?」

A「私は完全ではありません。間違いを犯します。神のお示しくださった教示を私自身がすべて誤りなく履行できているかというと、決してそうではありません。そのような者は存在しません。私は、皆さんと共に歩み、苦しむ者であることを選択した者です。神がお示しくださったメッセージを皆さんにお伝えし、聞き入れる準備ができた勇気ある方々と共に歩んでいこうと決心した者です。

 地上は困難にあふれています。それは、すべての人に穏やかな心で接するという技術を身につけるために与えられた試練です。困難に取り組み、時には失敗することがあるでしょう、そこから教訓を得るのです。

 過去の失敗を参考にするべきですが、心を囚われてはいけません。すでにそれらは変えようのない過去の出来事なのです。今のあなたはすでにその段階にはおりません。そうはいっても、地上の人間は、その本質である心と外殻の肉体ともに日々進化しているのですから、過去の行いを未熟故に恥じることは当然です。

 地べたを這い、泥まみれになり、踏みつけられながら先へ進むのです。あなた方が進むべき道はすでに用意されています。しかし、それは途方もなく長く、まさに、地獄から光へ至る道は長く険しい、といわれた如くの道のりです。今、あなた方が直面する障害や課題、苦しみは、確かに行く手を遮る壁であるように思えるかもしれませんが、後日、それまで辿った道のりを振り返れば、それは神の御許という栄光へ近づくための永遠の課程から比べれば、つまづき、起き上がることを覚えるために必要であった石ころでしかないことがわかるのです。」