神と仏編㉑

A「ひとつ悩んでいるので教えていただきたいのです。具体的なことは申し上げられず申し訳ないのですが、例えば、これまでの人生を自分のためだけに生きてきた人がいるとします。そんな人が、『よし、これから他人のために尽くそう』、という考えに至るまでには、それはたいそうな苦しみを必要とすることがわかっています。自分が苦しまなければ、他人の苦しみは理解できないからです。その苦しみの過程において、その時、その場所の法律に違反するであろうことが明白な事態に直面した場合、私はその体験を容認すべきなのでしょうか。容認した場合は、私まで罪に問われることは目に見えています。」

 

B「ナザレのイエスは、その当時の法律を守っていたでしょうか。当時の法律とは安息日に代表される律法のことです。私が知る限り、彼は違反の常習者でした。磔にされた直接の原因がこの律法に違反したからだとさえ言われています。同時に、彼が次のように言ったとも伝わっています。『この罪人とされる人を投石によって痛めつける人は、これまでの人生で罪を犯したことがないと神に誓える者からにしなさい。』」

 

A「イエスの話は心温まるおとぎ話として受け取っておきます。私は、イエスという人物を知りません。そもそも、実際にそう言ったかどうかさえ確証はないではありませんか。私は、現実的な問題を言っているのです。今、そこにある懸念のことを言っているのです。彼女のその行いを黙認することで、私が罪に問われてしまうのです。しかし、断固として阻止すれば、それはかえって彼女の心に重大な影響を与えるばかりか、我が一人娘の生活さえ脅かされることになるのです。繰り返しますが、この事例を具体的に申し述べることができずに申し訳なく思っています。しかし、今のあなたのお話は、私が抱える問題の直接的な解決になっていない。」

 

B「落ち着いて聞いてください。イエスの話は、聞く者にとってはたしかに夢物語に聞こえるでしょう。しかし、実生活の神髄に直結するおとぎ話なのです。そこには真理が含まれているのです。

 あなたが罰せられようとしている法律は、時代背景や場所、国家によっていくらでも変わります。本当に罪深い行いかどうかは、神がご判断なさることです。その判断基準は、時代や国家によって変化しない公平公正なものです。人間が作成する幻の基準とはわけが違います。

 問題は、神が判断なさる基準を地上の人間がいかにして定義付けるかということです。これは、人間という有限の存在が、無限の存在である神を定義付けようとする行いに等しいので不可能に近い試みです。したがって、まずは次の点を振り返ってみてはいかがでしょうか。つまり、あなたが悩んでいる原因となっている人が定めた法律を守ることで保たれるのは、神への御忠義でしょうか。それとも、あなたの社会的評価でしょうか。

 仮に、あなたが社会的に罰せられたとしましょう。責任を負わされたとしましょう。その罰した者達やあなたに責任を負わせた者達は、罪を犯したことのない完全な人間なのでしょうか。あなたの社会的評価とは、未来永劫の不変のものなのでしょうか。

 先ほども申し上げたとおり、神の目から見た正しい行いがどういうものであるかなど、人間である私たちには分かりません。それを判明させようとするのは、不可能な部類に属します。しかし、あなた方は考えることはできます。自分がいま悩んでいるのは、自分を守ろうとするためだけに生じる葛藤なのか、それとも、その人の霊の進化に貢献する尊い犠牲なのか。」

 

A「かつて私は、彼女の行いに怒り狂いました。いまでも時々怒ることがあります。しかし、あとで振り返ると、たいして怒る理由に乏しい怒りであったということがあります。自分の判断基準は、そのときの基準であり、恒久的でないのは分かります。それでは、怒りはすべて誤りということで、人は無感情、無感覚になれとでもいうのでしょうか。それならば、神はなぜ私たちに感情をお与えになるよう人体を進化させたのでしょうか。」

 

B「怒りは自体は必要です。人間は自分の肉体を管理する義務があるからです。したがって、自分の体を守るために必要最小限度の範囲で行う怒りは、むしろ怒るべきです。

 怒ったり、泣いたり、感情的になったりというのはすべて魂の成長に欠かせない体験です。魂が成長するためには、自分の限界と向き合うことが条件です。その方それぞれの肉体的、感情的限界の縁に留まる必要があるのです。

 苦しみとは、人がその時の限界に立ち向かい、その限界を広げる際に伴う痛みを意味します。その道に教本はありません。自分で考え、自分で探し求めていかなければなりません。そして、そうと決めたら、周りの人たちの批判に関わらず実践しなければなりません。その結果、自分に降りかかるいかなる社会的損失を恐れてはなりません。」

 

A「仰ることは分かりますが、人生とは大海原を航海していくようなものではありませんか。誰でも海に沈むのは恐いものです。なんらかの羅針盤、方向性や基準があれば助かるのですが・・・。」

 

B「大切なのは、その行為が他人のためになるか、他人の損失になっていないかどうかをよく考えることではないでしょうか。他人の霊に何らかの影響を与えることができるような人間になることです。それ以外の残った余地において、自分のために行うべきです。」 

 

A「つまるところ、よく言われているように、『人のために自分を犠牲にして生きる』、ということになるのでしょうが、この言葉を軽々しく口走るべきではないと考えています。この言葉を究極すると、イエスがかつてしたように、人のために自分の肉体さえも投げ出すことを意味するように思うからです。言葉で言うのは容易いですが、実行するとなるといかに難しいかがわかります。まさに、葛藤と苦しみの連続といえます。」

 

B「自分の限界に立たされ苦しいときほど、その苦しみの原因を作り出している人のためになっているかを考えることです。悩み、葛藤しながらでもかまいません、自分の肉体を棄て、その身を捧げることに挑戦してみることです。

 そして、他人の霊に影響がないのと思うのであれば、あとは自分の体を守るために動き、ありとあらゆる機会を利用して自分の体をケアするべきです。その時点で地上の法律による規制は、あなた方に備え付けられている良心に比べれば足元にも及びません。」

 

A「そういえば、ヴィクトル・ユゴーはその著書であるレ・ミゼラブルのなかで、このように言っていました。『良心こそ最高の法律だ』。それに、あなたの話を聞いていると、同著に登場するミリエル神父を思い出しました。彼は、住む場所を失い、食べ物に飢えていた人物に泊まるところを提供し、食事を与えたにもかかわらず、その人物に彼が大切にしていた燭台を盗まれてしまいました。その人物が警察に捕まり彼の面前に連れてこられたとき、彼は警察にこう言ってその人物を救いました。『あなた方の職務に敬意を表します。しかし、あなた方はこの人を罰する必要はない。この燭台は私が彼に譲ったものだ。』。この証言によって、警察官は彼を解放しました。この体験によって、その人物はそれまでの自身の行いをおおいに悔やみ、それから苦渋に満ちた更生の道を歩み始めます。そして、死の間際には、周囲にいた彼に親しい二人の若者の悲しみを慰めるにまで至るのです。」

 

B「この地上において、自分の霊を進化向上させるため、実生活の苦しみに身を置くことを決めたのはあなた方自身なのです。そのように決断したとき、あなた方は自分を限界に置くことで、自分の可能性を広げようと誓ったのです。

 かつて、地上でイエスとして知られた霊は、敵を愛しなさい、と語りました。敵とは、あなたに苦しみをもたらす存在です。その苦しみとは、あなたが限界に立っているというなによりの証拠であり、まさに、あなたがこれから明暗のいずれかの方向へ進もうとしているときなのです。あなたが明るい方向へ成長するならば、その後、あなたの限界は広がるでしょう。限界が広がるならば、それまで苦しみだったことは許容範囲に収まり苦しみではなくなります。そして、その段階にさえ至ってしまえば、これまで敵だった人はもはや憎むべき敵ではなく、あなたに成長をもたらした人であり、あなたが愛することができる人となるのです。

 イエスブッダとして知られる霊は、決して神ではありません。彼らは手段なのです。その目的は、彼らが預かった言葉を残すためであり、彼らが語った言葉の発信源こそ神であり本質です。『喉元を過ぎれば・・・』といわれていますが、今となっては、あなたが苦しんだ内容自体は重要ではありません。その苦しみは、重要なものを得るための手段なのです。重要なのは苦しみそれ自体ではなく、その苦しみによって得た経験です。そこにこそ神が宿るのです。」