償いと試練編㉟

 守護霊に導かれ数々の苦難や苦悩および涙と慟哭の体験によって、彼と守護霊との通信経路は拡張されていき、あわせて利他主義の重要性を理解した彼に守護霊はこう言いました。

「真の意味でこの地上生活を最大限活用した者とは、御父があなたに与えた宿命に甘んじて苦痛を体験し自らを鍛え上げ、続いて自身は犠牲となって同胞のために精を出し、神を信じ神に奉仕し、守護霊の指導に素直に従う者である。」

「自我の向上を妨げるものは己の中のあらゆる種類のうぬぼれと利己心、怠慢、わがままである。」

「地上の体験は影ではあるが、貴重なのである。その体験を得たいと大勢が様々な形で地上に戻る。ある者にとっては苦しみ、悲しみの体験であり、ある者にとっては感情の抑制、心の平静のための練習であったりする。」

 ある夜、彼の守護霊は語りました。

 あなた方の先駆者であり、私たちの指導者であられる御方は、かつて地上にその身がある時に祈られました。

「天におられるわれらの父」を祝福したのです。

「我々の父」という言葉ほど、我々を常に深く愛し、導き続け、我々の成長のために、この地上を創造された存在を表現した言葉はありません。その御方は、自然法則そのものであり、決して過ちを犯すことなく私たちの身の周りに存在し、我々が畏怖すべき偉大かつ絶対的な存在です。

 その存在に比べて、私たちは相対的であり不完全であるので、絶対的な者を完全に定義づけることはできませんが、絶対的存在であるということは、唯一無二であり、同様の存在はふたつと存在しないことを意味します。ふたつ存在すれば、もはや絶対的でなくなることは明白です。

 仮に存在するとすれば、それは人間にとって都合が良い神であり、彼らが彼らの必要に応じて彼らが作り上げた神なのです。不運にある者を叱咤する神がいれば、生け贄を喜ぶ神がいて、また、金運の神がいれば、仕事や勉学の神まで幅広く用意されています。「天におられる我々の父」が、そのような心変わりの激しい人間的煩悩に囚われた神だとでもいうのでしょうか。

 地上的尺度で推し量ることができない真に公明正大な神であり、善人に晴天も与えれば雨も降らせる永久不滅の神を認めるからこそ、その下にある者たちは繋がる者同士としての認識が得られるのです。