教育編④

 日常の生活においては次のことを常に念頭において生活しなければなりません。

 現に苦しんでいる者、困っている者を助けること。

 彼らを救うため、その時点で授かっている神理のすべてを活用しベストを尽くすこと。

 苦しんでいない者、困っていない者については放っておいてもかまいません。

 助けると思う範疇で手を差し伸べれば良いし、放っておいても良い。

 強迫する者よりされる者を助けること。

 金銭の支払いを迫る者より迫られる者を助けること。

 苦しませる者より苦しむ者を助けること。

 その行動がだれをも救うことがないのなら、行わなくても良い。自分の立場を守るための行動となってしまうからです。

 ところで、ここ最近悪霊に苛まれたのでその体験を記録しておくこととします。

 発端は日常生活における些細なことでした。

 その日は朝から私が所有する車両のバッテリーが上がり、動かせなくなったのでその後ろに止めてある車が出せなくなってしまいました。

 バッテリーがあがったのは今回が初めてではなくて、これまでも何度か発生しており、そのたびに彼は車を事実上管理する妻に修理するようお願いしますが、いつまでたっても修理されません。

 修理しない理由はバッテリーを交換しても、走らなければダメだということですが、肝心のガソリン代まで節約し、給油のたびに5リッター程度しか補給しないので、そもそも距離を走ることなんてできませんでした。

 そのような状況下で発生した再度のバッテリーあがり。後ろに駐車してある車がその間出せないという事態に対処しているときから、私の心には一種の焦りが生じ、体力を消耗させ、心から余裕が失われていきました。

 さらに、私たちの子どもの世話に起因する些細なトラブルで、私は追い込まれていき心から余裕がなくなっていきました。

 いつまでこんなことが続くんだろう。これからずっと耐え続けなければいけないんだろうか。

 余裕のない心に自己憐憫の情が生まれたが最後、妻の心ない一言でとどめが刺されました。

 気づけば、私はその場にうずくまり髪を掻きむしり、うなり声を上げていました。

 この時の記憶はおぼろげで断片的にしか覚えていません。

 茫然自失する中で、さらに妻がこう言います。

「子どもを抱っこするの疲れたから、そこをどいてあっちへ行って。」

 その瞬間、絶望に打ちひしがれる私の頭に確かにこういう声が響きました。

「そいつを殴ってしまえ。殺してしまえ。胸ぐらをつかみ力尽くで分からせてしまえ。こいつをわからせるにはそれしか方法がない・・・」

 そして、脳が命令し、私の右腕と足を動かせ、妻に向かわせようとします。

 同時にそれを留めようとする声もありました。

 あとから振り返れば、まさに善と悪の壮絶な闘いと煩悶でした。

 結局、私の足が妻に向かうことはありませんでした。その場から逃げるため、私の足は家の外へ向かったのです。

 不思議と外に出たら、すぐに冷静になって考えることができました。

「私は何をそんなに怒ったんだろう。」

 子どもが1階にいる間、2階に上がれば必要ない電気代がかかり続けることへの懸念だろうか。それに対し、親から苦情を言われることの心障りか。

 外は小春日和でした。しばらく外を歩いているうちに出した結論はすなわち、「他人を救う前に自分を守らなければならない」というあたりまえのことです。

 魂が地上にいる間、その体験を享受するための宮となる肉体の管理はその魂の義務とするところなのです。

 私は、それを怠っていたのではないだろうか。

 その結果、肉体と精神と魂の三位一体のバランスが崩れ、その隙を利用し、悪霊が私の肉体と精神を利用し心配の念を吹き込み、破滅の方向へ向かわせようとしたのではないか。

 このような体験は、うまく乗り越えることができれば将来の自信となるけれども、とてもリスクの高いことだからなるべくならあのような体験はしない方が良いです。

 暴力を働いた結果、今後魂が得ることができる貴重な体験の場を失うことになりかねません。