教育編⑤

 それまでの生活を振り返れば、確かに無茶がありました。

 1階のこたつで寝て、朝5時に起床し、子どものためにお風呂の準備をし、妻が入浴している間に祖母の相談に乗り、続いて子どもを入浴させる。朝食は食べずに出勤し、一日働き18時頃から子の面倒をみて絵本を読み寝かしつけ、妻から毎日履行するよう指示がある携帯サイトを実行し、子供用の水筒や調理道具を洗った後、そのままこたつで寝込む。

 それでも夜11時ころには自由な身となっていたのです。問題は、その自由時間を休息に充てず、体に鞭打って神理の探求に充てたこと。

 私は焦っていたのかもしれません。

 これまで30年以上にわたって神理から遠のいた暗闇の中で生活してきて、このたび主の導きによりそのごく一部を垣間見た程度に過ぎないのに、今更何を焦っているのでしょう。

 急は事をし損じます。

 必要なのは、急速ではなく休息です。一日働いて疲れたと思ったら早めに寝ること。おなかが減ったら適量を食べること。規則正しい生活を送ること、暴飲暴食はしないこと。ストレスは実体がある物として、その発散に努めること。

 急がず、あわてず、その生活の中で肉体を健全に保ちながら神理を学ぶこと。

 いま思い返してみると、肉体を管理する義務を怠ったから、そこを悪い霊に利用されたということです。

 今回学んだことは、肉体を持つ者の性格の善し悪しはさほど問題ではないということです。なぜなら、肉体を持つ者は良心の声や善霊によって行動が制限されているからです。

 真の脅威は、悪霊そのものに自分の脳や精神が支配されてしまうこと。過度に将来を心配することや肉体の疲労の蓄積、過度のアルコールの接種は、悪霊に取り入る隙を与えてしまいかねません。

 まとめると次のとおりです。

 ① 神理の探究や実践を焦った結果、心に焦燥感を伴うようになっていく。
 ② その焦りから不安が生まれ、また、肉体を疲弊させていく。
 ③ 霊、精神、肉体のバランスが崩れる。
 ④ ちょっとした日常生活の出来事で容易に動揺する。
 ⑤ 悪霊にその隙を突かれる。

 自分を守ることが同時に人を救うことに繋がる、ということです。

 私の妻と両親の間に立ちながら、私の苦難は続きます。日常生活における妻の常識を逸した行動については、その行いの現場を訪れ、目を背けることなくその目で確かめ続けることが肝要です。

 そして、その行為が誰かの魂の進化向上を妨げるものであれば強く非難すること。ただし、この行為の内容をよく吟味する必要があります。

 例えば、義母への金銭の要求自体は誰かの魂の向上進化をなんら妨げるものではなく、むしろ「罪を犯したことのないものから最初の石を投じなさい」に該当するケースとして、妻を許すべきであると考えられます。

 妻の要求が度を超えるものであるならば、これを断るために怒らず丁寧に説明しなければなりません。すなわち、あなた自身が迫害されたらこれに寛容に臨み、誰かが苦しんでいたらその人を救うため努力するといったところです。

 さて、そんなある日に私が考察するのは、かのナザレのイエスとして知られた霊の地上時代の生き方に関してです。その方は、悲しんでいる人がいればこれを慰め、苦しんでいる人がいれば手助けし、ひたすら神が定めた神理に従い、愛、慈悲、寛容の精神を説いた可能性があるということです。

 同時にこうした辛辣な言葉も残したことが語り継がれています。

「豚(苦しまない者)に真珠(神理)を与えてはならない。」

「井戸に水がなければ、水を欲して近寄ってきた人をさらに絶望させる」「葉だけ豊かで実を結ばないイチジクの木は、果実を期待して近づいてきた人をさらに絶望させる」=「見た目だけ立派で、実際には人を救うことができない者は苦しむ者をさらに絶望させる。」

 その方は、愛の精神を苦しむすべての人に差し向けたのと同時に、人が他人の霊的向上を妨げることについては容赦なかったのではないでしょうか。

 例えば、神の名をかたり、神に通じるからと理由を付け祈祷品などを販売し利益を得ようとしたり、貧しい者の信心を利用し、財産を搾取し個人的な利益を得ようとすることに対して容赦なかったということです。

 それこそ、大工の息子らしく、言葉を選ぶことなくこうした行いをする者を徹底的にこきおろしたのではないでしょうか。そして、時の権力者の反感を買い十字架にかけられたものと推察します。

 これを自分の状況に置き換えるとこういうことです。

 高齢の父は苦しみから逃れるために酒を飲み、その酒代が手もとから離れることを恐れた。

 その酒代は、彼が酒を止めれば彼の息子や孫を救うために使うことができた。

 現実に、彼の息子は窮乏していた。

 この状況を知ったとき、その方がその場にいて高齢の父と話す機会があったらこう言うだろうということです。

「老い先短いじいさんが酒を飲みたいと子供の前でだだをこねるとは、なんともみっともないことです。不満があるならいますぐに酒を断つことです。浮いた金で子どものために何か買ってあげてはどうですか。それこそ、いい冥土の土産になるのではないですか。」

 この高齢者は、これを聞いたら激怒するだろう。

 怒るだけでない。実際に行動を起こし、彼を家から追い出し、そこに住めぬようにするでしょう。当時の律法学者やパリサイ人らが行った仕打ちと同じです。

 このことから次のことが言えます。

 仕事のことや霊的なことに関わらず、自分がその時点で正しいと思う意見については、もちろん是非をよく吟味した上で、きちんと丁寧に説明すること。

 それが先方にとってとても厳しいものであるがゆえに反感を買ったとしても、偽善的姿勢で対応した結果、ゴマすりとなり相手方に不自然な期待を生じさせるよりは良いのです。

 もっとも、人は批判する者から一番利益を得ているということを忘れてはなりません。

 また、人への批判は、そのままその人自身へも当てはまります。