受難と実践編⑯~㉕

16
 苦しみを与えた人や出来事を振り返るとはらわたが煮えるが、それに対処しようと孤軍奮闘した記憶は今となっては微笑ましく美しい。

17
 ある日、彼の妻による彼への態度があまりにも酷であるのを見て、彼の一人娘は彼に質問した。「あの母をどうしようかねえ」

 彼は答えた。「怒ることはしょうがないよ。でも、怒らせた人を批判してはいけないよ。」

 しばらくして、彼が聞いているとも知らず、この一人娘は母親に言った。「あの父をどうしようかねえ。」

18
 相手にする義務がないのであれば、幼稚な者を相手にしない。雑魚ほど水面でよく飛び跳ねる。
 幼稚な者は、過去に生き、過去を責める。
 成長途上にある者は、過去を参考に未来に生きる。

19
 断食に神理を見出す者が多いのも頷ける。確かに空腹は人の意識を神へと向けさせる。満腹は人を神から遠ざける。苦しみが人を神へと近づけるのと同じである。しかし、周囲から自然に与えられた食物をも意図的に絶ってはならない。これは霊の進化にむしろ悪影響を与えかねない。

20
 高ぶる者の心を入れ替え、傲る者に意見を聞かせるためにそれ以外の方法があるというのか。慟哭と嗚咽のなか、苦しみにもだえ続けること以外に何か方法があるとでもいうのか。

21
 苦しむ者を救うことは、こちらの損失をいとわず、茨の中に手を突っ込むことに等しい。
 私がかつてひとりで苦しみもだえていたとき、目を開くとそこに血だらけの手が差し伸べられていた。
 手の持ち主の目は、ただ慈悲深くすべてを悟っていた。彼は私を救うために来た。私は、この人に、再度一からやり直そうと誓った。

22
 私が自分を犠牲にしてその苦しみの池に漬かるのは、私が向上進化を得たいからではない。かつて私のために犠牲になった方々との約束を果たすため、かつて私のために傷を負った方々を落胆させることがないよう今度は自らが犠牲となるのだ。

23
 我々は空腹に怒るのではない。空腹に訴えるのは胃と脳である。
 空腹に怒るのではなく、我々が怒るのは、空腹の状態に至るまで愛や思いやりが与えられなかったからである。
 すなわち、胃は食物を摂取し、霊は愛を摂取する。

24
 見よ。神の栄光が与えられる者は、己の犠牲を顧みず、飢える者に食糧を配布した。
 これによって神の栄光が与えられる者に向けられる非難は、低き者達からのものである。
 かつて、どこかで、神理を行うとき、同時に他の者の利益を害することになることを私は指摘した。
 神に仕え神理に生きることを優先するのか、それとも低き者達の利益を保護することを優先するのか。
 ナザレの人は、律法学者の権利を保護するために神理を行わなかったか。
 今改めて確認するが、神理を行う者に助けられておいて、他に理由を探して自分が神理を行えないとはどういうことか。
 あなたは何度同じ過ちを繰り返せば気が済むのか。
 神理を行う機会が与えられたら、自分がそうと決めたら、脇目も振らず、あらゆる犠牲や損害をいとわず、それを行いなさい。
 足りなく、苦しいときだからこそ、分け与えなさい。それを行うには不断の勇気がいる。この勇気には信仰がいる。この信仰は知識を得て、体験によって確信する必要がある。
 この体験は地上の苦しみによって得られる。

25
 口から出る不満はすべて肉体から出るもので、霊の成長とともにこうした肉の声も大きくなる。したがって、肉の声が耐えられないほど大きいというときは、それだけ霊が成長しているということである。
 怒りには2種類ある。霊が憤ることによる怒りと、肉体が苦しむことによって脳が憤ることによる怒りである。