開拓編①

 昭和初期からの霊言によりますと、地上の物質そのものは不確実極まりない存在であるので、地上において確かなものというのは自分自身という霊の存在を置いて他にはないということになります。これは、フランスの哲学者であるルネ・デカルトが「我思う、故に我あり」という有名な言葉を残すこととなった基本理念でもあります。

 地上で生活するうえで、不確かな存在の代表格といえば、睡眠中に体験する夢でしょう。目覚めたときに、あれほど現実味なく、摩訶不思議なものはありません。

 そのように感じるのも無理はありません。私たちの存在が霊であるとする説に立つのであれば、私たちの霊は肉体との間に「地上の鎖」とも呼べる縁で切っても切れない関係で繋がっているからです。睡眠中の体験を起床後に振り返ったときに、限りある脳の処理能力では、そのすべてを解析できず混乱を生じるのです。それが夢特有の非現実性へと帰着する原因です。

 このように睡眠中に見る夢は、目覚めた後に振り返ると夢幻のごときですが、夢の中に身を置いているときはむしろこの地上世界の方が夢幻なのです。

 戦国武将として知られる織田信長が好んで引用したと言われている一節のとおりです。

 人間50年 夢幻のごとくなり

 だからといって自分の肉体が欲するままに自由勝手に過ごしてはいけません。人のために生き、自分を犠牲にする行いは苦痛を伴うものですが、たかが50年の短い期間なのです。挫折して下を向くこともあります。道が閉ざされたように思うときもあります。しかし、それらは魂の進化向上にとってかけがえのない体験なのです。あなたの魂にとって厳選され、配慮された貴重な経験なのです。

 いや、今は人生100年時代だよ、とおっしゃる方もいるかもしれませんが、霊の永遠性から見て、50年と100年との間に何か違いがあるのでしょうか。

 もっとも、人生100年や長寿を否定するつもりはありません。霊が地上で経験を得るために必要な媒体である肉体を維持管理することは義務です。しかし、この肉体の維持管理が自分のためだけの都合によって行われるとき、それはとても醜いものになります。それだけではありません。周囲の負担にもなります。

 そのような負担さえも、受ける側の貴重な体験として神は采配なさるのでしょうが、どのように維持管理しようと、肉体には限られた存続期間があります。この存続期間中は、最低限で自分の肉体を守り、最大限で他人に尽くすことが地上人生を有効活用するといえるのではないでしょうか。