受難と実践編①

 苦難は受けること、体験すること自体に価値があります。

 安易にそれが解決されることを神に望んではいけません。仮に望んだとしても、守護霊たちはその要望を叶えることは許されていません。その祈りは自分勝手なものだからです。

 そして、心から望んだその望みが叶えられないとして神に怒るとき、あるいは、苦しみの体験があまりにも無慈悲、理不尽に与えられるものとして神を怒るとき、または、救済のないことに守護霊に苦情を申し立てるとき、それらさえ神は祈りとしてお受け取りになっています。

 なぜなら、心からの真摯の祈りは時として怒りに包まれるからです。そのために人は憤怒の感情を持つことになったのです。

 自らに負わされた苦難の重さ故、その解決を願っても一向に解決されず、霊の進化向上にむしろ悪影響を与えかねない事態であると考えられるにもかかわらず、また、困っている人を助けよという神理が存在するにもかかわらず、一向に援助がなく、むしろ悲劇が上乗せされるそんなときは、神を信じるのであれば、信じるからこそおおいに怒るのです。

 ただし、その怒りは霊の進化向上に必要な範囲にとどめるべきであり、また、そのような怒りによる霊の後退は、進化の前提としての後退です。怒りを乱用し溺れることとは異なります。

 すべてに絶望し涙するとき、あまりのストレスにうずくまり悶え苦しむとき、祈りがかなえられず神に怒りをぶつけるとき、絶望と孤独の中、為すすべなく夜の闇の中を徘徊し雨に打たれるとき、後から振り返れば、このようなときほど神は身近にいました。