受難と実践編⑭~⑮

14
 救いを求める者は、救いを求めない者たちの集団の中に紛れています。
 救いを求める者を救おうとするとき、救いを求めない者達から必ず迫害や妨害を受けるのです。
 この迫害を怖れ、救いを求める者へ手を差し伸べずにおくのでしょうか。この迫害にかまわず、救いを求める者へ手を差し伸べ続けるのでしょうか。
 苦しむ人を救うことは、こちらが苦しむということです。そうでなければ自己犠牲とはなりません。

15
 自身の守護霊は自身と同一であり、その穏やかな部分は守護霊の性格そのものです。
 その冷酷な部分は、肉体がこれまで進化してきた過程で必要とした因果によるものであり守護霊自身とは関係ありません。
 したがって、性格そのものはその人自身を表してはいません。その人というものは、その人に許された範囲で自由意志を働かせ、日常生活を送り、その結果を体験する、その経験をとおして、はじめて個性として現れるのです。
 「我思う、故に我あり」と言った言葉があります。周囲の不確かなものを排除していくと、最後にひとつだけ残るものは、そのように考える自分だけである。周囲の不確かなものとは物質である。最後にひとつだけ残るものは霊のことである。したがって、「我思う、故に我あり」とは、「私が理性をもって考えることができるということ自体が、私が霊であるということの証明である」という神理を表した言葉となります。