神と仏編⑦

 私たちは日常生活を送るうえで毎日数々の選択を行っています。その選択が正しいものであったか、間違っていたのかについては、個人が容易に判断できるものではありません。短期的に見れば成功のように思えても、長期的に見ればむしろ失敗であったといえるようなことがしばしばあるからです。人は失敗して初めて学ぶということがあるのではないでしょうか。長い目で見れば、あのとき失敗して得た教訓こそが真実の財産である、成功していては決して見ることはなかった、といえる体験は誰にでもあるはずです。

 信じることなしに生きることは、羅針盤なしに大海原を航海するのと同じことだと言われています。日々の失敗をよい教訓にできるかどうかは、本人の心がけひとつにかかっているのです。私たちがこの不安定な地球上で生活できるのが何らの意思なき自然状態で生じた偶然の現象だとお考えであるならば、地上の建物は設計者なしに自然に建てられた偶然の産物とでもいうのでしょうか。

 ただの岩と土くれの塊だったこの地球が、ここまで生命あふれる天体に進化したのは偶然でしょうか。

 ただの生殖と食欲の塊だった猿がごとき生き物が、ここまで知性あふれる人種に進化したのは偶然でしょうか。

 このような進化を生み出したエネルギーを信仰の対象としたとき、私たちが行う選択が与えうる影響というものはごくわずかです。全体にはなんらの影響を与えないようにも思えます。しかし、その選択を行うことが神の属性の一部であるならば、その能力が与えられた責務を自覚し、それに伴う責任を果たすべきです。

 ある選択をする上で、他人がそうだよ、と答えたものほど信用のおけないものはありません。重要な選択は、自分の目で見て、自分で確かめてから自分の理性で判断して正誤を定めるべきです。

 大航海において、自分の船のオールを他人に任せてはいけません。たしかに、他人のオールを他人に任せることは荒波を乗り越えるうえで必要です。しかし、あくまでそれは他人に委ねるべきオールがある場合です。自分に船が与えられ、自分にオールが任されたならば、自分の船は自分で漕いでゆかねばなりません。その結果の善し悪しは、私たちが想像も及ばない偉大なエネルギーに判断を任せればよいのです。

 「神は自らを助ける者を助ける」とはよく言ったものです。