神と仏編⑥

 私たちの本質である霊は、地上で自分を開発するために必要な経験を得るため肉体を持つにあたり、肉体に適合させるためその本来の高繊細な波長を落とし込み、その輝きを犠牲にさせ肉体と一体になり、地上で物質に囲まれた生活の体験を始めます。これは霊が地上で肉体を持つ限り人類共通の真実であり神理です。

 霊が地上に降りる目的は様々ですが、ある霊は地上で生活する間、魂の開発程度が低く、稚拙で幼稚な霊と接することが宿命付けられています。そのような霊の程度が低い者たちは、大小の差はあれどほぼ例外なく利己主義であり、物質が第一であり、霊が地上で得る体験など二の次、三の次なのです。

 このように稚拙で幼稚な霊へ、霊の光り輝く本質や愛や思いやりに満ちた世界について語ることが、いったい何の意味があるというのでしょうか。彼らは文字通り、目で見てはいますが真実を見ておらず、耳で聞いていますが真の言葉を聞いていないのです。

 霊が肉体を有する間、その程度を落としているのと同じように、このような稚拙で幼稚な低俗霊と生活を共にしなければならないというときは、先にある者はその本来の波長を落とし、彼らと同じ価値観にまでその身を落とし、それが罪だと知りながらその時々に応じた対応を選択し、彼ら幼稚な霊と接し続けなければなりません。このようにして、本体霊の世界の高みに身を置く者がその住む世界を低くすることで、罰や怒りや悲しみなどの苦しみを体験します。これを自己犠牲といわずしてなんというのでしょうか。光り輝く霊が、自分の境遇や姿がまるでわかっていない哀れな霊に対峙するため、犠牲を払って自分もその哀れな環境にまで身を落とすとき、その行為を犠牲という単なる言葉で終わらせてはいけません。その犠牲は、受ける者に忍耐を必要とさせ、実態のある痛みを伴うものなのです。

 イエスなる人物が聖書で語られるとおりの高貴な人物であったとしたら、当時の人間は彼を認識すらできなかったでしょう。それでも、イエスという存在がかろうじて今でも語り継がれているのは、彼が地上の人間に認識される程度までにその波長を下げ、その姿を地上に適合させようとなさったからです。すなわち、イエスは霊の本質である愛や思いやり、無償の奉仕、自己犠牲などを語ると同時に、肉体特有の性質である怒り、悲しみ、喜び、楽しみに付き添われたのではないでしょうか。どのようなときにおいても、彼は自分の肉体の喜びを自分の肉体を守るためだけの範囲に抑え、それ以外は徹底して自分を犠牲にして苦しむ者のためにその身を尽くされたのです。聖書においては、そのように自分の身を守るイエスの姿は描写されず、人のために尽くす神のごとき存在として強調されたイエスの姿があります。理性を持って聖書を読んでみてください。新約聖書はどのように編纂されたのでしょうか。そこに、どれだけイエスの真実の姿が担保されているとでもいうのでしょうか。
 イエスが語った内容は、イエスひとりだけが語ったわけではありません。時代も場所も遙かに異なる場所で生まれたブッダも同じことを語り、さらに遡れば、モーセなる人物も語っています。なぜなら、その内容の出所はただひとつ、神にあるからです。

 イエスブッダという人物が実在したのかどうかといった議論はもはや意味を成しません。赤子が昔読んだ絵本の作者が分からないからといって、いま何か支障があるとでもいうのでしょうか。