神と仏編⑧

 地上の物質や肉体の本体が霊であるとするならば、霊が進化をすれば、当然それに従属し物質も進化することになります。この両者の進化の過程は、相互に関係を持つはずです。 

 地球上で生を受けた初期の生物は、その能力的な制限によって単細胞生物の段階で自分の存在のみ認識し、周囲に同じような生物がいることを把握することはできません。これが進化を経て、自分とあなたといういわゆる二人称の関係で周囲を認識できるようになっていきました。さらに、進化を続け、自分とあなた、第三者という三人称の把握までが可能となったのです。

 このような三人称の把握能力こそが、人類に組織だった活動を可能とする能力の基礎となるものなのです。このような進化の過程は霊においても同じです。

 いわゆる高級的な霊になればなるほど、ある目的の達成のために単独で行動するものはいません。必ず、組織を結成します。地上の会社や役所と同じです。上述した進化の過程に照らせば、低い者たちほど組織体を嫌います。低級な者は、そもそも二人称や三人称などの複数称を掌握する能力に欠けているからです。

 現在、彼の妻は二人称の関係を把握できるに留まっています。三人称が把握できる段階にまで、霊、肉体ともに至っていないのです。そのような進化段階にある彼女の霊が、その進化に必要な体験を得るために、その目的の達成にふさわしい体をまとっているに過ぎないのです。

 ところで、ここで足元を見なければなりません。彼の妻の行いをこのように批難する彼自身はどうなのでしょうか。妻が二人称の把握能力だと批難する以上、彼は三人称を把握できているといえるのでしょうか。彼はさらにその先の四人称や五人称の把握ができるとでもいうのでしょうか。

 仮に四人称や五人称といったものが存在すると仮定して、その認知が可能な者たちから見れば、彼も同じように能力に欠ける者となるではありませんか。

 彼に課せられた義務は、霊が体験を得る上で必要な肉体を最低限度において守り、管理し、同時にその身や精神を犠牲にしながら周囲に尽くし、日常生活の体験を得て、肉体や精神の自然反応を媒体としながら教訓を受け入れ、学び、次の生活に活用し続けていくことです。


 私たちは、完全完成を目指すところではありますが、残念ながら、そこに完成はありません。完成があるとすれば、それは神の領域です。私たちが神であるならば、私たちは地上に存在しなくなってしまうでしょう。