神と仏編④

 私たちが地上でせわしなく働き、日常生活の困難に挑み続けるのは、やがて訪れることになる霊の世界での仕事に備えるためです。地上はそのための準備小屋であり、控えの間に過ぎず、霊の本来の住み家から投影された世界に過ぎません。

 本番前に練習を行うための練習場のような地上において、私たちがまがりなりにも公の仕事に従事するのは、やがて訪問する霊界においても同じような他人のためになる仕事、つまり公の仕事に携わるからです。

 この霊界における公の仕事こそが本番なのです。地上で携わる仕事は、公道に出る前の教習所のようなものなのです。

 ところで、公とはなんでしょうか。公の両極に位置するのは私(わたくし)です。公私は同時に存在しますが、公をある程度発揮するためには、私を犠牲にしなければなりません。

 すなわち、公とは、自己都合を捨て他人のために自分を役立てることです。とはいいながらも、私という存在はこのとき同時に存在し続けるので、私を完全に消滅させることは不可能です。不可能な以上、公の活動とのバランスを取りながら、最低限の範囲で私を守らなければなりません。なぜなら、私という一極が消えれば、対極の公も存在しなくなるからです。そこには、確固たる両極性の原理が存在します。

 自分の理性を尽くし、最低限の範囲で自分を守りながら、同時に公のために自分を犠牲にする。この一見して矛盾と捉えられる両極性こそ、万国共通の原理、ひいては神理といえるのです。

 地上で苦しみの果てにあなたがこれまで受け取ったメッセージはすべて公のものであり、同時に、あなたの都合に合わせて最適化されたあなたのためだけの個人的なメッセージでもあります。それならば、周囲の人たちには伝わりにくい可能性があったとしても、そこに少しでも神理が含まれるのであれば世間に公開すべきです。

 一見して矛盾。これこそ神理であり、両極性の法則のもと霊が成長できる環境を与えている原理なのです。そして矛盾を含む以上、そこには必ず葛藤を生じます。ついては、人が葛藤し、思い悩むことは神理ということになるのです。

 人が有している脳は、恨みを記憶しやすく思いやりを忘れやすくなっております。それは、人類が持つ脳が今の形状と機能を保有するまでに必要とした進化の歴史は、愛とはかけ離れた、残虐性に富んだ環境の中に進化せざるを得なかったからです。肉体の進化の歴史を辿れば、動物の進化の歴史に行き着きます。そのような弱肉強食の世界では、残虐性を発揮したものが生き残ります。そして生き残りながら、少しずつですが、その脳の機能を拡張させ、進化させていったのです。

 哺乳類から始まり、悠久の時を経て猿人が原始の脳を持つようになり、現在、私たちのようなホモ・サピエンスが持つ脳にまで進化しました。この脳の進化によって、肉体の脳が霊という異界の存在との意思伝達を可能としたのです。

 私たちが時として思わぬ残虐性を発揮するのは、その肉体の進化の名残があるためです。霊は違います。霊は思いやりを記憶し、恨みを忘れます。肉体が食物を栄養とする一方で、霊は思いやりを栄養源とするからです。この両者の対極性も矛盾のひとつです。私たちは地上にある限り、身も心も両極性や矛盾による葛藤のなか生活せざるを得ない状況に置かれているのです。

 地上に身を置く以上は、他人の脳に記憶されることなく、他人の霊に愛を刻むような生き方をすべきでしょう。

 時として、地上では忘れ去られ、片隅で誰にも見守られずひっそりと死に至り、その肉体を離れることになった者ほど、霊の世界において破格の次元に属する光り輝く霊であることがあります。彼らは、人体の脳に必ずしも記憶されるとは限りません。しかし、地上における暗黒の体験を経たその功績は、数々の霊によってその記憶に刻み込まれているのです。