○ 結婚8年目12月下旬
彼は両親の不平不満に耳を傾けました。それが神の義であると信じるからです。やがて彼の両親の口から出る言葉は、彼には解決困難な要求と化していきます。
彼は苦しみました。話をよく聞き同情を寄せることはできます。しかし、できぬことをせよとするその要望をいかにしてかなえることができるでしょうか。
ただし、彼には真理がありました。これらは神の与えし試練であり、彼に学ばせんとする御父の意向であるとの確信であり信念です。
彼は次の記録によって知識を得ていきます。
神は、悪行であると知りつつ行った者を罰するので、悪と認識できずに犯した者をその寛容さで許容なさいます。
そうだとすると、自分の罪を認識できない者は、他者をどれだけ苦しめても、いつまでも罰せられることはないことになります。
暗闇にいる暗い者は、自分が行っている行為を比較できません。
明るみの中の明るい者は、自分が行っている行為を比較できません。
幼稚園児の中にいる幼稚園児は、自分が行っている行為を比較できません。自分の行いが幼い行為であることが分かりません。
自己を認識できるのは、明るい者が暗闇に入るときと、暗い者が明るい場所に入るときです。幼稚園児は自己が成長して始めて、自分がこれまで幼稚園児だったことに気づくのです。
ある人は人に与える苦しみの意味も分からず、幼稚園児が文字を読み解く程度の理解力しかない一方で、ある人は御父に導かれ真理を授かり、その意味するところを理解し、日常生活において己の責務を果たさんと奮闘し、自己を捨て、自己憐憫を捨て、自らへは氷のように厳しく、他者へは寛容で慈しみ深く、結果として自己を犠牲にして他人へ奉仕するものがいます。
暗い場所で、何も分からず罪を働く暗い者は、その場で罰せられることはありません。しかし、明るい場所にたどり着くためには、その者は罪を自覚しなければならないのです。そのままでは、罰せられることもないかわりに、明るい場所にたどり着くこともありません。
そして、進歩しなければ、かならず退化します。退化した彼らがたどり着く暗黒の場所は、彼らよりもさらに悪意に満ちた濃厚な闇が支配する場所です。それらの闇と対比すると、彼らの闇はまだ明るい。
そして、自らが明るいと気づいたその瞬間、彼らは彼らがこれまで犯してきた行為に気づくのです。自らが行った行為が罪だと認識したその瞬間から、それらは罪となり、罰となって彼らを襲います。
「人の心は、今おかれたその場で、それみずから地獄を天国となし、天国を地獄となす。」と言われているとおりです。
地上のすべての苦しみは、主の創造せし真理、摂理、自然法則に反することから生じます。それらは同時に試練でもあります。そうした苦しみや試練には目的があって、その貴重な機会を利用して、あなたという存在をさらに愛たる存在へ近づようとする守護霊達の配慮があります。
苦しみや試練に出会ったならば、自己の良心に問いかけながら解決方法を模索し、守護霊と相談しながら最善を尽くし、神に祈り、感謝し、希望を胸に抱きながら、地上において全力を尽くし事にあたる。
全力を尽くし、これ以上はどうしようもない、自分には解決できないと壁にぶつかり絶望したなら、守護霊に相談することです。神に祈ることです。
あなたの祈りのすべてがあなたの希望とおりかなえられるわけではありません。人間の祈りというものは、得てして自己都合色の濃い自分勝手な内容だからです。それらをかなえていてはむしろ、当人の進化向上によい影響は与えないと判断されるケースがほとんどです。
すべては、霊の進化向上という観点からよしなに図られます。あてがわれた悲しみに慣れてしまうことです。
他人に寛容になることを自分の試練とする者は、あなたの寛容さによって救われたその相手から侮辱され、挑発され、否定され、拒絶されます。彼らがそれが罪であることを分かっていないなら、あなたが耐え忍ぶまさにその時、かつてイエスが行ったように、あなたは他人の十字架を背負っているのだから泣きながら胸を張ればよいのです。
あなたがたに神のご計画を知るすべはありません。知っているというなら、なぜ、あなたはご自身の死期を知らないのでしょうか。私たちが出来ることは、今日が最後かも知れないという覚悟で生きることです。
あなたはもはや過去のあなたではありません。かつて苦しみと失望の連続に対して頭を垂れ、下を向いて歩いてきたあなたではありません。
これから苦しみに出会ったなら、その理由をすでに知っているのだから、苦しむ自分をだましてでも明るく振る舞ってください。他人から侮辱され怒るならば、努めて冷静に振る舞ってください。
いつしか本当に明るい状態に至るはずです。