償いと試練編⑩

 この頃の彼を取り巻く家庭状況は、次のとおり整理できます。

  • 彼の父であるAは彼を救うことが出来たが、自分を優先し彼を救わなかった。
  • 彼の母であるBも彼を救うことが出来たが、むしろ迫害した。
  • 彼の姉であるCも彼を救うことが出来たが、自分を優先し彼を救わなかった。
  • 以上の出来事は、彼自身が過去に犯した罪によるものであり自業自得が招いた苦しみである。

 ところで、上の整理によると、彼の周囲の者たちは、彼らが行使することを許された自由意志によって一定の行動を選択する必要があったことになります。

 特にBは、その後の日常において二者択一の選択を迫られ続けます。

 すなわち、自分を愛しその身を守るのか、それとも他者を愛し自分を犠牲にするのかということです。

 天の御父は、ご自身の考えを人に押しつけるような蛮行はいたしません。自分の身を自分で守りたがる者には、そのことをお許しになられます。すなわち御父等は、自分の身を自分で守りたがるBを尊重し、その守護から一歩退くのです。つまり、「自分をとにかく優先し、自分の身は自分で守るのだ」という意志を尊重するのです。

 一方で、御父を信じて守護を託しその身を任せ、ひたすら人のためにその身を犠牲にする者に、偉大な御父はその者の意思を尊重し全力で彼を守護しようとします。それだけではありません。苦しむ彼の霊のためになるであろうあらゆる影響力を、地上の自然法則を利用して働きかけるのです。

 このことを身をもって体験したかつての先駆者は言います。

「人のために自分を犠牲にする者は、たしかに地上で苦しみます。しかし、それは必ず天の御父によって一時のものとされ、その涙は必ず御父によって数えられ、御父を喜ばせ、御父によって配慮されます。そのために、地上にあっても我らは天の御父を信じなければなりません。」

 

 私たちは誰に救済を求めるべきかを常に自分に問わなければなりません。

 我々霊が成長する体験の場として、この地球を設計し造り上げた力と権限を持つお方を信じるのか、それとも、その地球上に肉体を持つ数ある霊の一個であり、とかく自分を優先しがちで日常的に過ちを犯しやすい人間を信じるのかということです。

 苦しむ私たちは、もうどうしようもないと嘆き祈るとき、誰に対し、何を求め祈るのでしょうか。少なくとも、神様や仏様に対し、私のために何とかしてくださいという心境ではないでしょうか。神様や仏様が自身を犠牲にして骨を折り、私たちのために働いてくださることを信じて祈るのではないでしょうか。

 このように信じて祈った結果、神様や仏様が自分を優先し、他人のことなど知らぬといって私たちの祈りを放置したとしたら、私たちはどのように感じるでしょうか。

 自分のために犠牲になって行動してもらいたいと人に祈るなら、まずは自分が人のために行えているか振り返らなければなりません。つまり、あなたが人から祈られたとき、自分を犠牲にしてその者のために行動できているだろうかということです。

 盗人は自分が人の物を盗んでおきながら、我が子に対して「人の物を盗んではならない」と教える資格があるでしょうか。「はい、資格がありますよ」と心に思うならば、強大な権限を有する神が同じようにあなたに接したとしても、あなたには何も言うことができません。

 しかし、ここに現実的な問題があります。自分が人の物を盗んでおきながら、他人が同じことをするのは許せないと大真面目に考える者が多数いるのです。そして、そのような霊が集合しているのが、この地上というところです。