「もはや形は問わない。皆の栄光と恵を願って、神に祈り続けよう。」
この当時彼はこのように考え、眠る前に心のなかで次のように祈っていました。
- 天におられる我らが父よ。
- お助けください。
- 私は地上で兄弟達に苦しめられております。
- 彼らに恵と栄光をお与えください。
- 私は、苦しみの原因が過去に私が犯した罪にあることを承知しています。
- それが御心であることも知っています。
- そのうえで、可能であればこの苦しみを私から取り除いてくださるようお力をお貸しください。
- その方法を私にお示しください。
- 私があなた様から遠ざかることのないよう、義に沿って行動するようお導きください。
番号で箇条書きしたのは、この当時の彼の祈りを分析するためです。
この祈りは事実上次のような意味を持ちます。
「ぼく、あなたの言うことをとてもよく聞く良い子なので苦しいから救ってちょうだい」
他人のために自分を犠牲にするんだ、と標榜するものが、苦しみに直面した途端、「自分のために」苦しみを免除してほしいと言ってしまっているのです。
このような祈りのことを一般的に偽善者の祈りと言います。残念ながら彼は、彼の母が偽善者であるのと同じように、彼も偽善者としての道を立派に歩んでいたのです。
苦しみとは、過去に自らが犯した罪の大きさに従い、神が定めし自然法則により自動的に人間が受けることとなる魂の薬です。そのため、苦しみを一緒になって支えてあげることはできますが、苦しみ自体を取り除くことはできません。
雨雲の下で一緒に雨に打たれることはできますが、雨を止めることはできないのと同じです。
すると、祈ること自体の意義に関して疑問が生じることとなりますが、この「祈り」という行為については、数々の霊界通信においてその効用が認められ推奨されています。それらを盲目的に信ずることとなってはいけませんが、そこに働くメカニズムや原理は明らかにされていかなければなりません。
かろうじて、その道のエキスパートであるナザレのイエスの記録を見る限り、イエスは、苦しむ自分を救済するために祈ることはせずーもっぱらそのような祈りは効果がないことを知っていたー、多くの場合、他人の苦しみを我が苦しみとして苦しみ、その救済を祈ったということです。その線引きは非常に微妙ですが、イエスは自分が楽になりたいがために、ましてや、自分の利益のために祈るのではなく、すべて、他人の利益のために祈りを捧げたということになります。上に箇条書きしたように、苦しい私を救ってください、と祈る彼とは雲泥の差があります。すべては霊格の差です。
過去の記録を検証するうえで、福音書をはじめとする新約聖書の文言については、同じ新約聖書内で警鐘が鳴らされています。すなわち「文字は人を殺し、霊は人を生かす。」とする部分であり、聖書の一言一句の解釈にこだわり出すと主たる目的から逸れる可能性が指摘されています。
彼の偽善者的祈願に対しても、彼の守護霊は彼を支援するためメッセージを送り続けます。
「冷静になり理性を働かせることです。あなたを救い得る神の使者がどれほどいらっしゃるでしょうか。
ナザレのイエス
光を失ったのち光を得たパウロ
シルバーバーチ霊
インペレーター霊
インペレーター霊が率いた49名の善霊
ザブディエル霊
ジョージ・オーエン牧師
ソクラテス
モーセ
一方で、あなたを害する者はどれほどでしょうか。何名いるのでしょうか。
いるのであれば、先に挙げた善霊のように名をあげて数えてみてください。
それに、地上を創造した愛の顕現たる神が絶対的に君臨する以上、あなたが体験することはすべて計画の内にあります。
ゆえに数々の善霊が語ります。
地上において、あなたは無数の者達から無条件で愛されているのだから、明るくあって、勇気と希望を持ってください。