妻や父母の間に入り苦しむ彼は、トリプルAを実行しようとしていました。すなわち、妻を裁かず、同時に父母を積極的に支援しだしたのです。
妻を裁かないことは単純ですが、実行は極めて困難でした。父母の支援についても簡単です。これまで以上に話を聞き相談に乗り、対処方法を改めて検討するというものです。八方美人と言われればそれまでですが、仕方ありません。家庭を丸く収めるため、このときに彼が思いつき行うことができる最大限の対応だったのです。
しかし、このころから、彼の父母の化けの皮が剥がれ出します。本性が現れてきたとも言えます。次のような者とどのように接したら良いか考えると、彼が当時置かれていた状況が想像できます。
- その者は、自分の立場が面白くなくなると、酒に手を出し酩酊したうえで、息子に愚痴を吐く。
- 息子は神の義に従うため体調等の如何に関わらず、その愚痴を聞き入れる。それは自己を犠牲にした忍耐を必要とする。神の義に「隣人を愛しなさい」とあるからである。
- その者の言葉が神の義に従う息子によって聞き入れられたことから、その者は恩恵を受け心の平穏を授かる。
- これに味を覚え、その者は息子に解決困難な苦情を繰り返し申し立てる。
- それは、問題解決のための扉と鍵を自ら閉めておきながら、鍵を持たない息子に扉を開くよう要求するものである。
- これに対し、息子はさらに耐え忍んだ。神の義に、「人を裁いてはならない」とあるからである。
- しかし、要求がエスカレートしていき、これ以上神の義に従うため忍耐していては、むしろ別の神の義に反する恐れが出てきた。神の義を満たすため、神の義に反しなければならないという事態なのである。
たとえば、彼の父は酒に酔い、節約せよ、と息子に言います。息子は浪費など断じてしていません。働き、得た収入はすべて妻へ渡し、昔犯した罪への反省から忠実に家の者に尽くしています。むしろ浪費しているのは酒に酔う者による酒代です。
- 自ら酒を断つことが節約になると分からない。
- 自ら罪を犯しておきながら、人には犯すなと強く求める。
- 腹に思うことと、その口から出る言葉は一致せず、口で思いやりの言葉を吐き、腹ではその不幸を願う。
- 自ら解決できない状態に追い込んでおきながら、その解決を息子に要求する。
彼の葛藤が始まります。
- この酒に酔う者は神の義を行うものと言えるのか
- それでも、裁かず、耐え忍び、罪を許さなければならないのか。
- 神の義に反する者を許すことで、己が神の義に反してしまうことにはならないか。
- 酒に酔う者の妻はどうか。一方で孫を愛すると言いながら、一方では金がないために酒に酔う者への対応ができないと言う。一方で息子夫婦を家につなぎ止めておきながら、腹では追い出すよう画策する。
- 口では息子が心配だと言いながら、実際には追い詰める行動を取る。
その父の酒臭い口からは、日を追って痩せ細る彼への気遣いが語られるものの、実際に父が彼に食べ物を提供することはなく、代わりに酩酊する父の酒代に消えていきました。
たしかに、両親の不満と成る原因は彼の妻にあることは間違いありません。その夫は彼です。しかし、彼の両親が主張する不満は、何ら問題を解決するものではなく、単に息子に無理難題をふっかけるものと化してしまっているのです。
地上において、父親がその子供に対して有する神の義は、神がその者に子を託したことに対する責任の履行にあります。
神は、地上において経験を積ませ、その自我を進化向上させようとの計画を持って、その者へ愛する我が子を託したのです。
子に肉体を与えるのはあなた方です。
肉体に霊を与えるのは神です。
あなた方は、肉体に霊を与えることができるとでも仰るのでしょうか。
酒臭い彼の父はこう言うでしょう。「我々がいるおかげで、おまえは生まれることができたのだ。」
なんという吐き気を催すような傲慢極まる言葉でしょう。神の栄光の御名を汚すとは、まさにこの行いのことを言うのです。酒に酩酊し、子を苦しめることが父親に許された特権だとでも言うのでしょうか。
しかし、この酒臭い暗黒の体験が彼には必要だったのです。彼はいつかどこかで同じような罪を働いたのです。そして、向上進化を願う神の御心によって、今度は彼が同じように苦しむ番なのです。
かつて放浪息子として苦しんだ彼が、心の底から反省し家に帰ると、天の父は両手を広げ暖かく迎え入れてくれるのです。
それならば、神に祈りつつ耐え忍ばなければなりません。
しかし同時に、彼の幼い女児へ彼が負うこととなる神の義はどうなるのでしょうか。酒に酔い、自分の立場が悪くなると責任転嫁するため口論をふっかけ、己のストレスを発散しようと企む者から、子を守るのが父の責任です。
その責任を知りながら、酩酊する悪しき者の言動に対し、何ら対策をとらないことが忍耐であり寛容であり、神の真理に沿う者の行動だとでもいうのでしょうか。
この場合、もはや行動しなければなりません。
同時に、心では酩酊する者を許し続けなければなりません。