開拓編③

 私たちは地上にあるときも地上を離れるときも、信じる対象を間違えてはなりません。これは繰り返し唱えていることですが、それだけ錯覚を生みやすいのです。

 あなたは、なぜ霊的に幼稚な者を信用し、その者たちがいつかはあなたの期待に添う行いをしてくれると期待するのでしょうか。あなたにあなたの妻の霊を成長させることができるとでもいうのでしょうか。その考えが苦しみのもとになるのです。あなたには、妻の霊が成長するよう最も適すると思われる行動を選ぶことはできますが、妻の霊を成長させることはできません。その采配ができるのは神だけです。守護霊たちでさえ、本人の霊がその気にならなければ成長させようがないのです。馬を水辺に連れて行くことはできます。しかし、自ら水を飲もうとしないのに水を飲ませることはできないのです。

 何度も言います。あなたを侮辱し、悲しませ、苦しませる者に期待してはいけません。いつかわかってくれる。そんな甘い考えなど今すぐに捨て去るべきです。あなたには神への義務があるのです。それは簡単なことです。神を信じることです。神を信じず、未熟な人を信じるということは神への義務を放棄することです。その行いに対して、神は自身の怒りを人に体験させようと人に怒りを生じさせます。

 私たちが心から信じることができることは何でしょうか。周りを見てください。太陽は毎日東から上がり西に沈みます。水は上から下に流れ落ちます。私たちが呼吸する大気は満ち続けています。光は目に捉えられるよう輝き続けます。

 すなわち、これら不変不滅の自然法則こそが神なのです。

 霊的に幼稚な者、霊的に車いすの状態にある者、人を痛め人のために動けぬ者、己の都合を優先し、己の物欲を満たすためにひたすら人を迫害し続ける低俗な者たちに、これらの偉業を変えることができるとでもいうのでしょうか。

 私たちが信じなければならないのは、これら自然法則の方であるということです。再度伺いますが、あなたは霊的に幼稚な者によってあなたが望む行為が完遂されることを信じるのでしょうか、それとも、身の回りの自然法則の不変性を信じるのでしょうか。

 神である自然法則から見れば、前者の姿勢はあなたの単なる義務の放棄であるに過ぎないのです。