教育編⑥

 この時期、私は神理から外れた行いをすることによって課される神の罰に恐怖を覚えるようになりました。畏怖とでも言えるかもしれません。この感覚が、神理を履行するの原動力のような気がしています。神の一息で私たちの存在など吹き飛んでしまうからです。

 毎日そのことばかりを考えています。

 人におびえているのではありません。神におびえながら生活しているのです。

 人はすでに生じた苦しみの歩みを止めることはできません。それは神の業だからです。その苦しみが人に到達する前に、未然に苦しみを止めることもできません。

 人にできることは、苦しみを受けた人を救うことです。

 これから苦しむことになる人のことを心配し、過度に不安視してはなりません。

 魂は永遠であり、地上の物にはなにひとつとして魂の永遠の存在を脅かすものはないことを常に念頭に置きながら、ベストを尽くし安心して日常生活を送ることです。

 特に、寝起き直後は脳が神理的にも活性化していないので、霊界から戻りし魂によってその霊的水準を霊と等しくしなければなりません。

 これは意識して行わないといけません。物質である脳は霊によって常に監視していないと、すぐにその本能の方向に向かいたがるためです。脳などの物質に記憶される本能や遺伝情報は、霊とは異なり極めて動物的、自己都合的です。本能などという言葉で象徴される人間の行動にはろくなものがありません。しかし、これらろくでもないものが、人間の肉体の成長には不可欠だったのです。物欲、食欲、性欲、殺人、窃盗、・・・おおよそ、人間は自らの肉体に必要な要素によって自ら悲しむようにできてしまっています。

 ですから、毎朝霊が睡眠という旅先から冷酷な肉体に戻るときは、この鈍重な肉体をコントロールする必要があるのです。霊が主人であり物が従者であるという姿勢を貫かなければなりません。