忍耐編㉛~㉝

31
私たちの目的地は、垂直にかけられた梯子を登った先にある。
時には雨のなかそれを登らなければならない。
時には手を滑らせることもある。
時には梯子の一部が折れ、足を踏み外すこともある。
時には梯子の建付に異議を称えることもある。
それでも、私たちはただひたすら上を目指し登り続ける。
神から与えられし手足をひたすら動かし続ける。
ただひたすら神の務めを果たし続ける。

32
 人は、他人から与えられるストレスを視覚、聴覚、触覚といった肉体の感覚の窓を通して感じ取ります。脳はこの信号を受け取ると、自身の肉体を守るため瞬時にこれらを分析し、体に防衛反応を呼び起こします。心拍数を上げ、血圧を上昇させ、危険が迫った場合、いち早く逃げられるよう肉体に準備をさせるのです。その瞳孔は視野を拡大させるため拡大し、体温が上昇し全身の毛穴が拡がり体毛が逆立ちます。
 これらは人間の肉体が動物時代から有する自然な防衛反応であるものの、この動物的防衛反応はいつまでも続くものではありません。危機が去るか、安全が確保されたかすると、肉体は何事もなかったように平常時の状態に戻ります。
 ここに苦しみが試練たる所以が存在します。つまり、この肉体の自然防衛反応は、肉体へのエネルギーの共有元であり、肉体と密接な関係にあるエーテル(あるいは精神)に大きな影響を与えているということです。これは肉体の経験がエーテルを仲介して霊の体験となるよう設けられている仕組みですが、例えば、肉体である脳がストレスを受け取った際に、そのまま肉体の自然防衛反応だけで通り過ぎ去ってしまえば良いのですが、人格が未熟につき、このストレスに対抗することができず、ストレスの発信元に対して暴言を吐いたり、暴力をふるったりするなど、何らかの積極的な対応に出たとします。
 するとどうでしょう。肉体だけで収まるはずのものが、暴力や暴言を吐いたその瞬間に、エーテルにまで影響を与え、その輝きを憤怒の色に染めてしまいます。これは言霊として知られる言葉の力であり影響力です。
 こうなると容易に収まりがつきません。怒る者は自ら怒りを招く状態となってしまうのです。さらにエーテルは霊本体を包み込んでいますから、そのエーテルが憤怒の色に染められると、霊そのものも憤怒の色に染められてしまいます。こうなると自然界に存在する磁力によって、同じように憤怒に包まれた霊を引き寄せ、さらに事態を悪化させてしまいます。
 地上で人間が受ける苦しみが、どのようなメカニズムで人に影響を与えるのかを分析すべきです。それらは霊に直接作用することはありません。なぜなら地上にある内は、その霊は肉体及び肉体と霊の中間要素であるエーテルによって包まれ保護されているからです。地上で人間が体験する苦しみは、すべてその肉体の五感を通して体験させられています。その影響を勇気を持って肉体に留めるか、エーテル、あるいは霊にまで悪影響を与えてしまうかどうかは、まさにその人の霊的向上の度合いや忍耐力の強さに係っているのです。
 決して無感覚になれと言っているのではありません。肉体の影響をエーテルや霊、その人の心にまで及ばせるものとするかどうかは、その人の霊次第だといっているのです。

33
 もう十分だ。
 神が与えたもうた感情をこれ以上抑えることに何の意味があるというのか。
 意味があっても良い。意味があったとしても、もう十分だと私の理性が判断している。
 神は確かにいらっしゃる。しかし、そこに救いは無い。
 周りを見てみよ。お互いに仲良くせよと伝えた者達は、寄ってたかって私の頭を叩きに来る。
 あげくには、語り伝えられる地獄の住民達のように、似たもの同士でお互いに取っ組み合いの喧嘩を始める。
 勝手にすればいい。
 いずれは崩壊するものが崩壊するだけだ。
 忘れるな。
 この地上は、かつてナザレの御方を張り付けにした世界であるということを。