教育編⑦

 家庭環境の悪化に伴い、家庭内では絶望感がひしひしと漂い、やることなすことがすべて成就せず、展望が望めず苦しみが続いたことから、一度耐えきれなくなって神へ叫び声を上げたことがあります。

 もう勘弁してくれ、ということです。

 それでも、これまでに積み上げた成果を目の前で崩され続けるような仕打ちを何度も受け続けました。神も信じるし守護霊の存在も信じるけれど、これではあまりにも理不尽ではないかと思うのです。

 生きる上で指針となる通信記録において登場する霊は、人はとにかく間違いを犯しがちである、と語っています。ならば、かつてこの人生を自ら選んだとはいえ、その選択自体が誤りではなかったかと思うのです。その選択の失敗に対する救済措置が図られなければ、地上の人間はおおいに神の愛を疑うことになり、ひいては数々の霊が通信として伝えてきた内容全体への信憑性が疑われ、もちろん、祈りなど誰も実行しようとはしなくなります。

 祈ろうが何をしようが、魂が必要な体験は経験しなければならないというならば、祈ることなど無用です。理性を働かせ、考えれば考えるほど、数々の霊が主張する祈りの効用など、すべてウソとなります。通信内容に一点ウソが含まれるというならば、ほかの内容を信ずるに足る根拠は何でしょう。そこに、ウソが含まれない確証があるのでしょうか。

 地上で人はとにかく間違いを犯しがちである、と言いますが、実際には、間違いを犯しざるをえない状況におかれてしまっていると言えます。

 真理を探究し己に厳しく己を鍛え、涙する人に救いの手を差し伸べる。この概念は崇高です。しかし、私自身がいま苦しんでいるのに対してこの仕打ちはあまりに度が過ぎるように思います。

 苦しむ人を救う?

 では今苦しんでいる私が救われないのはなぜだ。なにが自己犠牲だ、バカバカしい。こんな苦しみの毎日など、いたずらに神への不信仰を募らせるだけで無意味だ。魂の進化向上の計画などたかがしれている。その計画に誤りが含まれないとする確証はどこにもないじゃないか。

 このような心境でした。それと同時に、煩悶の中で次のように結論付ける自分もいるのです。

 人は間違いを犯しがちならば、家庭内の人間が日々犯す罪についても当然の結果であり、これを怒ったり、逆恨みしたりすることはない。

 いくら己の不備に起因するとはいえ、暗中模索の中、適切な道を選び続けよということはどだい無理な話だ。

 すると、これらの行為に対して「こうすべき」という指針など存在するわけもなく、人間にできることはその時のベストを尽くすことだけである。

 この「ベストを尽くす」という中には積極的な行為だけでなく、苦しみの池の中に漬かり、黙ってなにもせずに状況を見つめ続けるという消極的な行為も含まれる。いわば、「積極的に」何もせず、苦しみに耐え続けるという経験を受け入れるのです。

 この渦中の時は、救援も助言も望めない。ましてや、祈りの効果など一連の事態終了後に与えられるご褒美である。

 地獄から光に至る道は長く険しい。

 家庭内の面倒なもめ事に対応すべく、私はできることはすべて行った。その結果、裏面に出てしまった部分もある。

 これからは事態を不安視するのではなく、苦しみの池にだまって漬かり続け、すべての成行を周囲に委ねようじゃないか。

 だまってその場に居続けよと神が仰るなら、そうしようじゃないか。

 あなたにはそれを体験する必要があるというのなら、経験しようじゃないか。

 自殺者が内側に閉じこもり、くだらぬ自己憐憫の情に苛まれた結果、周囲からの援助が得られないというのであれば、周囲からの援助が得られないという点では、私と同じじゃないか。

 だってそうでしょう。必要な体験を得るまでは、それが苦しみの体験であればそれを経験することが義務であるし、そうするとその義務を履行するまでは周囲も援助し得ないのですから。

 だから、せめてその時は内側に閉じこもるのではなく、意識を外に向けて正々堂々と苦しみを体験し、見事に地上生活を全うした者として神の記録に残されるよう頑張ろうじゃありませんか。

 この時、家庭内では叫び声が上がり雰囲気は荒々しく、もはや私になすすべはなく、語る言葉も持ち合わせていませんでした。

 もはやすべてをあきらめ、黙って座して死を待とうという心境でした。せめて意識を外に向けて、周囲をよく観察しよう。肉の目においても、霊の目においても。

 私には諦めるしかなかった。怒りも涙も生じない。ただ、その荒々しい霊的雰囲気の中に身をさらしていた。これに伴いさらなる地上的悲劇が発生することを覚悟した。

 地上的な家庭生活を満喫することが目的ではない。その家庭生活はいつかは存在しなくなる。

 地上的に円満な家庭を構築するため家族間を調整することも目的ではない。その家族はいつかは死ぬ。

 私の目的はただひとつ。私の霊の進化向上にある。霊は永遠の存在だからである。

 だから、当面、その進化向上の手段は、この苦しみを黙って体験することにおいて他にはない。

 今、これらの苦しみは、私に解決されるために訪れるのではない。解決されるためではなく、私にこの苦しみ自体を体験させるために訪れるのである。

 私は地上の出来事に喜びを見出すのではない。

 神の右に座することへ喜びを見出すのだ。