受難と実践編⑧

 地上で肉体を持つ間はもちろん、霊の世界においても人は必ず神理に対して罪を犯します。

 自分は常に正しいと言える者は自然法則である神だけです。自然法則に反することを行うと、必ず反作用が生じ自動的に調整が入ります。これを罰と言います。人は自然に生じる罰を受け苦しむことで罪を清算しなければなりません。

 罪を犯し罰が与えられることは自然法則ですので、そこには神が存在します。したがって、罪を犯すこと自体は神を裏切ることではありません。罰を受けることによる清算を行わないこと、これに勇気を持って対処しようとしないことが最大の悪なのです。だから、どのような責めを受けようとも耐え忍び、そこに神が御座すことを心から信じ、克服に向け努力することが求められるのです。

 以下、親愛なる神の使いによって運ばれたメッセージです。

  •  あなたの霊は、あなた自身の行為によって処罰を受けます。皆自分の手で自分の人生を書き綴っているのです。いったん書き記したものは二度と書き替えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。
     だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいというのです。いかなる事態も本人が患っているほど暗いものではありません。その気になれば必ず光が見えてきます。魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。
     責任を全うしようとしたことが評価されて、その分だけ霊界から援助のチャンスも増えます。背負いきれないほどの荷は決して負わされません。なぜなら、その荷は自らの悪行がこしらえたものだからです。けっして神が「この人間にはこれだけのものを負わせてやろう」と考えてあてがうような、そんないい加減なものではありません。宇宙の絶対的な法則の働きによって、その人間がその時までに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷をこしらえることができたのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。つまり悪いこと、あるいは間違ったことをしたときのエネルギーを正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです。
     ノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に反省してみると、やはりそのスタートの時点において私が先ほどから言っている「責任からの逃避」の心理が働いていたのです。もしもその人が何かにつまずいた時点で「自分は間違っていた。やり直そう。そのためにどんな責めを受けても最後まで責任を全うしよう」と覚悟を決めていたら、不幸をつぼみのうちに摘み取ることが出来ていたはずです。
     ところが、人間というのは窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われていきます。ついにはノイローゼ気味となり、自分で自分が分からなくなります。問題はスタートの時点の心構えにあったのです。
     物事には得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観念からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。
     教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で現れることもあるわけです。人生は光と影の繰り返しです。片方だけの単調なものではありません。喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。
     ということは、双方に神の意志が宿っているということです。良いことにだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知ってください。