開拓編⑤

 彼の妻は、人の痛みが分からないのでしょうか。

 妻は夫の収入をすべて預かり、管理するという名目で夫が自分の通帳を所持することを許さず、夫が空腹を訴えても自分や子供の食べ残しを与え、夫が衣服の購入を求めても破けたものを与え、家事育児においては、細部まで自分の基準でルールを定め、そこから夫が一点でも踏み外すものなら彼を罵倒し侮辱した。

 それまで夫の体重は70kg前後だったものが、半年間で6kg落ちた。彼の姿を見た周囲の人間は彼が病気ではないかと疑った。しかし、彼の境遇に同情する者は多いものの、家庭内のことに踏み込める者はおらず、彼は一人で踏ん張らなければならなかった。

 人が苦労する目的のひとつに、慈悲心を植え付けるためであることが言われています。順風満帆、そよ風一つ、苦労一つ訪れない環境では、人は他者への思いやりを発揮することはできないのです。人は自分が踏みつけられて初めて、同じように踏みつけられる人の痛みを理解することができるからです。

 ある程度進化し成長した高級霊であるほど慈悲心を発揮できます。ジョン・ミルトンは言います。「地獄から光へ至る道は遠く、また険しい」。成長の階段を上がった霊であるほど、人の痛みを経験しているのです。人の痛みを経験し理解しているからこそ、その霊は同じように苦しむ誰かに手を差し伸べることができるのです。これこそ、人のために我が身を犠牲に生きる者であり、真理の道を行く者であり、やがて高級霊の境地へと導かれる者なのです。

 誠にいいますが、人の心の痛みが分からぬ者は、霊として劣ります。

 

○ ある裕福な高齢者は、自然災害による被害を受けた会社を訪れ言いました。

「私の100万円を寄付するから困っている人のために使ってほしい。」

 この高齢者に対応した担当者は言いました。

「ありがとうございます。有効に使わせていただきます。さっそく、社長にこのことを伝えたところ、感謝を申し上げておりました。」

 この高齢者は社長が感謝しているという言葉を聞くと、さも満足そうに微笑みを浮かべ、こう言いました。

「恐れ入りますが、隣の会社にも寄付をしたいので、その会社まで送っていただけないか」

 

○ ある貧しい青年は、自然災害による被害を受けた会社員の家を訪れ言いました。

「私は、皆さんの窮乏に心を痛めています。私に差し上げられるものはなにもありませんが、今日から皆さんと生活を共にし、できる限りのことをして差し上げたいと思います。」

 この青年に対応した家の者は言いました。

「夫は会社勤めで家にいません。夫の代わりに土砂の撤去作業をお願いできませんか。しかし、我が家は被災しているので、報酬は上げられません。」

 この青年はこころよく引き受け、さも満足そうに微笑みを浮かべ、こう言いました。

「報酬はいりません。ほかにも何か手伝えることがあったら、何でも言ってください。私は苦しむ皆さんと一緒にいたいのです。なぜなら、皆さんが被災者であるうちは、私も被災者だからです。」

 

○ 富む者の寄付と、やもめの寄付としてもこのような話は語り継がれています。上記2つの例のうち、真に我が身を犠牲にして人を助けている者はどちらでしょうか。

 果たして、イエスは寄付をする側にいらっしゃるのでしょうか、それとも寄付を受ける側にいらっしゃるのでしょうか。

 これらの問いが、机上で終わってはなりません。私たちは、自分の理性で判断し、これが正しいと判断できる選択肢を実践し続けなければならないのです。