開拓編⑥

 私は近年これほど怒りについて考えさせられたことはありません。仕事上の困難は別として、身の回りが順風満帆で、衣食住が確保されている時は、これほど憤ることなど今までありませんでした。

 振り返ると、私の日常生活にそれほど困難がなかったときは、同時に私に真理はありませんでした。困難が降りかかれば、降りかかるほど、それだけ真理も増えていきました。それでも、まだまだ道半ばです。これで満ち足りた、と思っても、さらなる困難の上書きによって更新されると、振り返ったときによくあの程度で真理を学んだなどといえたと痛感します。

 最近の私の日常生活における困難はすべて怒りに起因します。この怒りに対する根本的な対処法が見つからない限り、私はいつまでも苦悩するでしょう。怒りをなくすことなど不可能です。それとうまく付き合い自分なりの処理方法を見つけていかないといけません。

 すべては、永遠に続く階段の登り途中にあるのです。その日に見いだした怒りへの対処法が、次の日には通用しなくなっていることなどザラにあります。今時点で通用する言葉でも、階段を上がった場所においてはすでに通用しない言葉たちなのです。

 他人の感情を守るために怒ることは哀しみを伴います。その怒りは発作的に起こるでしょう。身の回りの物品を破壊することもあります。

 自分のために怒ることは獣感を伴います。心の中で、どこかに戸惑いがある怒りです。ここまで怒ってよいのか、はたして、何のために怒っているのか、といった疑念がかすかにでも生じる場合は、その場を離れるべきでしょう。

 私の場合、怒りによって可能性の限界を広げているのかもしれません。断定はできません。人はすべてそれぞれにおいて自分に最も適した方法で真理を探し求めていかなければならないからです。このように語る私の言葉を理解できる人間は自分しかいないということです。