神と仏編⑤

 私たちは、不測の事態や予期していなかった事象に遭遇すると不安を覚えます。このような不安は、時として怒りの感情に変化します。現代でもこのような発言が多く見られるのではないでしょうか。

 「悪いのはあいつだ。おれは悪くない。」

 「あの人の説明が悪かったから、私は間違えたのだ。私は悪くない。」

 「あの人が無断で欠席したからこういう事態になったのだ。私は悪くない。」

 それでは、もしも不測の事態が存在しなくなり、すべての事象が予測可能だとしたら、人は不安や怒りから解放されるのでしょうか。それはそうかもしれませんが、通常の人間には不可能です。しかし、私たちには対策することはできます。

 想定されうる限りの悪い事態に備え対策を準備しておくことです。もちろん、現場においては、様々な事態が生じるため、完全に未来を予測し対策することなどできませんが、この準備をしておくのとしていないのとでは、いざ予想外の事態が生じたときの心の反応が異なるのです。つまり、心が異常事態に備えることになるのです。心の準備ができているからこそ仮に失敗したとしても、そこに生じる落胆や怒りの度合いが小さく収まるのです。

 以上の論点から整理すると、怒りや落胆のなかには、事前の準備不足である点が否めない部分がある、ということになります。つまり、先ほどの例では、自分の不備ではなく他人の不備を責める台詞が見られましたが、なんということはありません。自分がそのようにして怒っている理由は、ただ単に自分の準備が不足していたに過ぎなかったから、ということになるのです。

 神をお試しになってはならないという言葉の意味はここにあります。全能の神がなんとかしてくれるからといって、目の前に脅威があるにもかかわらず何ら対応をしない霊は必ず苦しみます。神がお与えくださった理性をそのときに働かせられる限り働かせ、把握できる脅威に対処すること、準備をすることが体験として求められているのです。

 最善を望みながら、最悪に備えてください。