神と仏編⑩

 身の回りの生活環境が常にあり続ける常識的なものと考えてはなりません。

 周りを見れば、コンビニがありネット環境も整備されています。分業化が進み、金銭さえあれば食物はすぐに手に入ります。ネット環境が整備されていれば、注文によって玄関まで欲しいものが届きます。

 地球が誕生し、人類が今日まで進化してきた歴史から見れば、このような環境はつい昨日整ったばかりです。地球の歴史から見れば、最近まで人類は狩猟の生活を送っていたのです。そのような生活では、現代社会のようにあたりまえに食べられる生活というのはむしろ珍しいことだとわかります。

 そのように考えると、私たちが持っている人体は、空腹状態で生活するのが普通であったと考えるのが自然です。人体は満腹状態で生活するようにできていないのです。むしろ空腹のなか生活するように適応してきたと考えられます。

 私たちが住む文明国のような国では様々な食生活が見られますが、基本的に一日三食摂取することが常識とされ、空腹状態に陥ることは異常との認識から人権的な面や福祉的な面から法体制が整えられています。場合によっては、働けなく、資金がない者が路傍に迷わないよう援助する体制も敷かれています。

 このように、一日三食を初めとした衣食住の基本的権利を擁護し、お互いに助け合うことは素晴らしいことであり、人が神から仰せつかった義務を履行する美しい行いです。しかし、一日三食を当然なものと考え、これらが常に身の回りにあることが自然であると誤解してしまうことが人間の誤りです。

 さきほども言ったように、食物を安定的に食べられるようになったのは、つい最近のことなのです。空腹にあえぐ人たちに食事が行き渡るよう配慮できる、それだけ人類が霊的に進化してきたということになるのでしょうが、これを神から与えられた当然の権利と考え、周りからむりやり食物を求めることは罪を犯すことになります。

 似ているような罪は地上の悲劇として歴史上散見し、今でも続いています。隣同士の人間が自分こそ神の代弁者であるとして殺し合っている点です。彼らは誕生日に神とテーブルを囲い食事を共にしながら、隣人同士で殺し合えと語り合ったとでも言うのでしょうか。そのような不自然な光景を想像するよりも、家を失い路上で泣く子供に毛布を掛け、パンを食べさせ、水を飲ませる方が現実的であり美しくもある光景です。

 実際に見ることができない神と語り合うよりも、目の前にいる窮乏した子供と語り合う方がはるかに現実的です。困っている子供に食べさせることで、誰かが嘆き悲しむというのでしょうか。一方で、人を殺すことによってその親族やニュースを見た誰かが悲しむことになるのは簡単に想像できます。

 神は私たち人類に十分すぎるほど権利や恩恵をお授けくださっています。太陽が上がらない日があるでしょうか。酸素が吸えない日があるでしょうか。月が昇らない日があるでしょうか。地球の回転が気のまま不安定になるでしょうか。潮の満ち引きがなくなるでしょうか。地面が急に割れるでしょうか。山が突然現れるでしょうか。苦しみがない日があるでしょうか。

 これらは神のご配慮がなければ寸分たりとも存続し得ない人知を超えた現象です。これら人間が権利として無償で受け取れる財産を与えられておきながら、一日三食が与えられないからといって苦情を申し立てるとは何ごとでしょう。その様子は、まるでだだをこねる小学生がごときです。

 神がお与えになっている恩恵は、周りを見るだけで簡単に見受けられます。それと同時に、人間が自由意志を働かせ、理性を持って決めていくべきことというのがあります。この二つを混同してはいけません。人間の責任を放棄し、神に責任を押しつけるという哀れな態度をとることになるからです。