神と仏編①

 空腹に耐え忍ぶ日々が続く中で、彼は東洋におけるブッダの考え方に出会いました。それは、イエスの語った内容と酷似していた、というより、彼らが語った内容の源はみな同じであることを彼に確信させました。彼は彼の限界が試される日々の生活において、その教訓をその身に刻み込んでいったのです。

 イエスブッダなる人物は実在したのか、といった類いの疑問は、この空腹を耐えるにおいても怒りをこらえる上でも、あまり重要ではありません。重要なのは、彼らが語った言葉やその教えが意味するところそのものなのです。そうしたところを一般的に神理と言ったりしています。

 両者とも例え話を多く用いて同じ内容の教えを語りました。そして、今の彼にとっては、ブッダの教えと言われ伝わる話の方が実生活を乗り越える面で参考になる話が多く、彼を勇気づけました。 

 例えば、死にゆく王と四人の妻たちの物語は、まさに霊と物質の関係を表すものであり、これはイエスが語った話の基礎をなす概念です。

 ブッダは怒りへの対処法の話の中で、一言も「怒ってはいけない」と言っていません。この点で、彼の現実問題に即した話となっていることで彼の耳に届きやすくなっていたのです。

 例えば、口を閉じ続けることで初めてその効き目が現れる怒りを抑える薬の話では、怒りの薬の効き目が現れるまでその口を閉じることによって、時間が経過し徐々にではありますが、彼の中に静寂が生まれ、この静寂はやがて彼の平和となり、怒りが遠くなるのが感じられました。

 それでも抑えられない怒りに対しては、かみつく蛇の例え話が語られた。やたらと怒ってはいけないけれども、怒ること自体を禁じてはいない。人間としての責任を果たすため、大切な存在を守るため、必要な範囲内で怒ってよいのです。ただし、過剰な防衛はいけません、といった教えは、そのときの彼の心に染み渡り響くものでした。

 人間としての責任を果たすために必要と判断したなら怒ればよいのです。彼は呟きました。

 そうか、神は人間に責任を果たさせるために怒りの感情をお与えになったのか。

 神は人間に、人間としての務めを放棄することを許されたのか。そうではない。そうではないから、怒りの感情を抱くことをお許しになった。

 イエスブッダも同じ神に仕え、同じ神理を表現しました。異なったのは、その表現した場所と時代、文化や言語です。

 ユダヤ、キリスト、イスラム、仏と、人はやたらと線引きをしたがりますが、その教えの根底を流れるものは同じです。その源に線引きはありません。神はひとつです。そこに人間が線引きをします。有限な人間が無限の神を理解するには線引きし、細分化する必要があるからです。

 したがって、神理に線引きはありません。地域ごとに異なる言語や文化で変化せず、私たちを包み込むように存在する共通の概念が神理なのです。

 身の回りをよく観察してみてください。空気は国ごとに異なるでしょうか。太陽は地域で異なるでしょうか。飲み水は人種によって異なるでしょうか。自然現象はすべて神理に通じます。

 音の音色は世界で異なるでしょうか。その発し方が世界の楽器ごとに異なるのです。この地上において、怒り、悲しみなどの体験が存在しない国があるとでもいうのでしょうか。その到来時期が人によって異なるのです。

 怒りはすべての人間に与えられています。したがって、怒りは神理といえます。その使い方や表現方法が、人によって異なるのです。