開拓編⑩(葛藤の章)

 確かに、彼の妻の言動から察するに、彼女の感覚機能の一部はその機能が麻痺しています。それは、人がその体を管理するうえで必要な感覚の受け渡し機能です。例えば、お風呂に入れば爽快感がありますし、空腹を満たせば満足を得ます。また、気温が高く不快であるなら、体は冷をとることを求めます。彼女は、そういった感覚の受信機能が乏しい肉体に宿っているのです。

 さらに彼女は、そのような感覚の欠如が人とは違うことを認めておきながら、自分では対処できない出来事が生じると、周囲の人間にその原因があるものと責任を押しつけ、対策を求めてくるところにトラブルの原点があります。このようなストレスに日々向き合うことになる妻の夫には身を休める場所はなく、いつかは体を壊し倒れることになるでしょう。

 しかし、この倒れ死すことになる運命にあることを神に呪ってはいけません。なぜなら、そのような運命に身を置くことは彼の因果の結果として当然のことだからです。万策尽き、力尽き倒れる。死ぬことはあらかじめ定められた結果です。この因果応報の法則こそ、この地球およびその上にこれほどまでの生物が繁栄し進化してきた推進力なのです。

 彼女の行いやその結果に苦しむことは、彼が神への義務を放棄したために生じた事象ではありません。神へ果たすべき義務の最大の放棄、もしくは、神の名を侮辱する最大の行いは、原因によって生じた事態に対し、人類がそれぞれ与えられた理性を働かせないことです。つまり、原因となる行為を行う際に葛藤しないことです。何も考えず日常生活を送ることこそ、神への最大の侮辱なのです。

 このようにして行った原因によって、自然発生的に生じるのが結果です。別に、物が上から下に落ちるからといって神が怒っているということにはなりません。物を上に持ち上げた原因があり、そこから下に落ちるという結果が生じているに過ぎません。地球上の法則がそのようにできているだけの話なのです。必要以上に神秘的なものの存在を想定してはいけません。

 神を侮辱し怒りを買う行為とは、人間に与えられた理性を放棄する行いや、葛藤から逃げる行為そのものです。その最たる例が自殺です。

 神が何をお喜びになるかはわかりません。神に会って聞いたことがないからです。それでも神がお喜びになる行為がどのようなものであるかを信じることはできます。神は人が理性を働かせ、葛藤すること、ただそれだけをお喜びになると信じます。それは、神への義務を果たす行為であると信じるからです。その結果として生じる事象は自然発生的に生じるものなので、決して神が罰として人に与えているものではありません。結果がどうであろうと、神の喜びには微塵も影響を与えません。 

 こうした因果応報を生む力は、この地球をここまで発展させてきた神の推進力に他ならないから、その是非によって神を疑ってはなりません。神はあなた方のすべてを知っています。一方で、あなた方は神の何を知っているというのでしょうか。旧約聖書という物語において、神へ苦情を申し立てるヨブなる人物にこのような指導が入ります。「貴方は神がこの世界を造ったときの様子を知っているのか。そこに働く原理のすべてを知っているのか。知っているのなら万物の原理のすべてを答えなさい。何も知らない赤子同然のおまえが、親である神を批難できるとでも思っているのか。」

 おなかが減り、家に食べ物がなければ外に求めて良いのです。理性を働かせ、空腹を満たす方法を選択肢として上げ、どれが一番適切かを葛藤しながら選び出すのです。そのこと自体が、神への務めを果たす行為なのです。その結果として、事象が自然に発生するだけのことです。

 日常生活に疲れ、体を酷使し、健康を害すると思うなら、体を休ませる方法を考えるべきです。

 仕事において、人の間に立ってしまうつらい立場になったならば、最大の理性を働かせ、葛藤し、最も神の意に添うであろうと思うことを行うべきです。神理とは何かを問い続けることです。

 その結果として、肉体が死に及び、霊がそこから離れることになるならば、それは喜ぶべきことです。

 さなぎが古い体を脱ぎ捨て、広大な大空に向けて羽ばたくことに、何か悲しむべき要素があるとでもいうのでしょうか。