償いと試練編㉒

○ 結婚7年目5月

 彼と彼の妻が結婚してから、7年が経過しようとしていました。この間、彼らは1人の女の子を授かりました。

 彼は7年前の苦難を肥やしとして、また、補佐する者たちの援助により彼には真理のごく一部が与えられましたが、それは単なる知識に過ぎませんでした。記録上の文面でしかなく、魂の琴線に触れるには実体験が不足していたのです。

 彼は文字をその目で見てはいますが、理解していなかったのです。真理の存在は知っていますが、真理を理解するには体験する必要があったのです。この体験は得てして苦しみを伴います。

 彼は依然としてこれまでの彼と同じように小さい者でした。単に知識を得たに過ぎません。知識は得ることを目的に存在するのではありません。実践されるために存在するのです。

 また、知識はその大きさに従って、所有する者に責任を生じさせます。知らぬ者が犯した罪よりも、知っている者が犯した罪の方が大きいのです。これは、日本の民法において、善意の者と悪意の者とが行ったことで取り扱いが異なる点にその概念が表れています。

 彼はいつしか、「私はこれだけ苦労を乗り越えたのだ。そして、周囲の者がたどり着けない真理にたどり着いたのだ。ここまできたのは私だけだ。」と考えるようになりました。

 彼は真理を得たとの自負からいつしか周囲への献身を忘れ、真理を内面で誇示するだけの飾り物とし、自身が神に近し者と正当化させるために十字架を見せびらかせるような人間、周囲の者を見下す高慢なバケモノと化していきました。

 彼は真理を道具に他者を見下すという大罪を犯し始めたのです。

 そして、それは以前から理不尽な行いをする彼の妻に対する壮絶な怒りとなって、彼を苦しめ始めました。

 彼の高慢は、その昔、神の近くに座していた者がその愛の独占欲に囚われ、「我こそが神に最も近い者である」と豪語し周囲を見下した結果、その地を追い出されたとする原因となった罪です。それはPrideと呼ばれ、現在も七つの大罪のうちのひとつとして数えられています。また、別の記録では、「高ぶる者」とされており、彼らは自ら高みに登り、その登った分だけの高さから落下することと記録されています。

 彼の場合その高慢は、神が与えたもうた自然法則としての苦しみに耐えられる、と彼に豪語させるほどのものでした。神とは何か、とする問いに対してぼんやりとした答えしか出せないにも関わらずです。

 彼の高慢に発する怒りによって彼の妻は叫び声を上げ、その結果、彼は家を一時的に追い出され、野を住みかとし、そこで暗黒の夜が明けるのを待ちました。

 彼が感じる怒りや悲しみなどの苦しみの正体もわからず困惑する彼は、再度、かつて地上の先駆者達が地上に残した言葉を読み返すこととしました。

 これらは、地上で先駆者たちが犠牲となりつつも残した言葉であり、かつて彼が救われた言葉でもありましたが、いつしか彼は、これらから遠ざかっていたのです。

 これまでの彼にとっては単なる文章に過ぎなかったそれらの言葉は、いまでは高慢に起因する怒りの体験を経た彼の参考になりました。

 しかし、依然として彼は高慢な者であり続けました。