神と仏編③

 この地上に両極性が存在しないところはありません。空気や太陽と同じと考えれば、この両極性もまた神理といえます。

 光があれば闇があります。善があれば悪があります。陽があれば陰があり、右があれば左があります。

 成功があれば、失敗があるでしょう。円満があれば不和があります。

 喜びがあれば、かならずそこには悲しみが同時に存在しなければなりません。

 したがって、両極に位置し、互いに相反する概念で、一見矛盾することは神理に通じるのです。

 

 人の話を聞かず、自分の主張を一方的にまくし立て、会話が成立しない。それだけにとどまらず、これと同時に人を侮辱する。このような症状を見せるのは一人や二人ではありません。彼らのその性格を変えようと試みてはいけません。それは不可能なことなのです。しかし、彼らと対峙し対応するため理性を最大限働かせることはできるのではないでしょうか。

 不可能なことに心を悩ませることなく、可能なことに全力を傾けること。この姿勢は、神理なのではないでしょうか。

 侮辱するものたちの言葉や態度に動揺し、怒りや悲しみを覚えるのは、こちらにも彼らと同じような資質が存在するからです。このような劣等な資質を消滅させることができれば望ましいですが、通常はうまくいきません。

 こちらの都合よく物事は進みません。「私のではなく、主の御心のとおりになさってください。」、とはよく言ったものです。本来の作戦はまずそのとおりにいきません。ほとんどの場合、予備策が成功するものです。

 したがって、あまり力むことなく、当面はこのような侮辱を受ける体験を経て、ここに記録したとおりの神理に関する概念を知る、といったところでよいのではないでしょうか。